京都駅から北へ十キロ余り行くと貴船や鞍馬のちょっと手前に“市原野”という集落がある。かつては山間の農村地帯であったが、いつの間にか山は削られ、田んぼや畑は工場や住宅地と化してしまった。平安の昔にはこの地は鳥辺野や化野、紫野などと同様に 人の亡骸を葬ったところのようだ。その証拠にあちこちから相当数の石仏が掘りだされている。かなり以前には「イ」の形をした送り火が灯されていたところでもある。
その“集落”の入口に宗派は異なるけれど四つの寺が寄り添うように集まっている。そのうちの一つが今回紹介する補陀洛寺(ふだらくじ)、通称「小町寺」と呼ばれ小野小町が晩年を過ごしたと伝えられている地にある寺である。
叡電出町柳駅から電車に乗り市原駅(この路線はほとんどが無人駅)で下車する。駅の南東に“大神宮社”という社があったので手はじめにここからお参りする。この社には40年前にも一度来ているのだが、社殿は建替えられているのか綺麗になっている。朝から次々にお参りに来る人がいた。
祭神は天照皇大神で社殿は南向きに建てられ、鳥居は西向きに立っている。ほかに境内社が複数ある。また鞍馬街道をはさんだ所には厳島神社がある。
市原駅から西にゆくと直ぐに鞍馬街道に出る。その道を南へ五分ほど歩くと左側に小高い山が見える。その上に目指す小町寺がある。この辺りは小野氏の所領だった所で、小野小町の父上が住んでいた所と伝わっている。
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
花の色は色あせてしまったことよ むなしく わたしがこの世で月日を過ごして物思いにふけるうちに そして長雨が降りつづく間に
“ある人が市原野を通りかかったとき、一叢のススキの中から声がした。「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ(秋風の吹くたびに、ああ目が痛い)」と和歌の上の句を詠じているように聞こえるので、声の在りかを探すと、野ざらしの髑髏の目の穴から薄が生えでており、それが風になびくごとに人の声のように聞こえるのだった。その髑髏がこの地に下向して死んだ小野小町のものだと教わって哀れに思い、「小野とは言はじ薄生えけり」と下の句を付け、弔いをした。”
※ある人とは在原業平のことのようだ。
上のような話が巷間に伝わっている。この話は江戸時代には歌人にはよく知られていたようで、天明五年(1785)の飢饉の頃、津軽地方を旅していた菅江真澄という 歌人で“紀行作家”でもある人物が残した『菅江真澄遊覧記1』には、
“道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田村)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄や女郎花のおいでているさまは、見る心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいった…”
※この白骨は天明三年から四年にかけ餓死し行き倒れた者の屍だと地元の者が教えてくれた。私事で恐縮ですが、50年前に木造から鰺ヶ沢に向って五能線沿いに歩いたことがあります。田んぼと砂山の続くところでした。真澄の文を読んでからは、ススキを見ると つい「あなめあなめ(穴目穴目)」と呪文のように口ずさんでしまいます。
小町は小野氏の出で小野篁の孫という説もあるようだ。小野氏は近江の国や山城の北方に勢力を持っていたようだ。ここから近い上高野(小野郷)には小野神社や小野毛人(おののえみし)の墓がある(その辺のことはまたの機会に)。小町の墓は随心院など他にも幾つかあるようだ。
供養塔レリーフ
深草の少将は小町に恋心を抱き百夜通いをしたそうな。それが成就する前日に伊豆に配流され、その地で亡くなったとか…。彼の菩提を弔ったのがこれ?
周辺から掘り出された石仏は八百体に上るという。
小町寺の下方には鞍馬街道が通じている。この山は篠坂峠といい、江戸時代に山を切り崩して広い切通しにしたようだ。四十年ほど前にも小学校の通学路として小町寺の境内地を切り崩し歩道を造っている。とても交通量が多いところだ。余談だがこの道を自転車で市内まで通勤した心臓破りの峠(帰路)だった。
『平家物語』の最後の方に後白河法皇が大原に住む建礼門院を訪ねるくだりがある。その途中 小町寺にも立ち寄っているので、当時すでに名の知られた寺だったということだろう。一行はここを出てからは、静原を通って寂光院に行ったということかも知れない。その道を数日前に江文神社あたりを探してみたけど(地元の人にも訊ねたけど)、分からなかった。
※続編があります。来週投稿予定!
小町寺へのアクセス
叡電出町柳駅:市原駅下車徒歩7分
市営地下鉄国際会館駅前:京都バスで貴船・鞍馬・市原行きに乗り「小町寺下車」