さて後白河法皇一行は、市原から大原寂光院へ向うのにどの道を通っていったのだろうか。『平家物語』ではそのことには何一つ触れていない。思うに上高野まで戻って高野川沿いに若狭道を大原へ歩くとなると倍以上の距離を歩くことになるのでその道は考えられない。やはりここは市原の東へ輿を向け、静原の里を通り江文峠を越えて行ったとするのが無理がないであろう。
それではしばしの間 静原の里を歩いてみよう(わたしにとっては電車とバスを使っての「大原御幸」二日目の旅である)。
静原の里を訪ねるのは実に三十余年振りだろうか。自転車やバイクなどで通り過ぎるだけでは何の面白みもない集落だった覚えがあるが、今回半日ほど探索してみてなかなか趣のある集落であることが分った。天皇社でバスを降り、参拝を終えてから集落へ入った。
どういうわけか土蔵は土壁がむき出しのものが多い。白い漆喰で上塗りをしていないのだ。これはこれで趣があって好きだなあ。見てわかるとおり夏の暑さに対してエコな構造である(雨の日でも軒の下で作業が出来るようになっている?)。
年配のご婦人が畑仕事をしている。静原には姑と嫁のうち、どちらかが外に働きに出るという暗黙の掟のようなものがあって、夕食の支度などもどちらかが指導権を持ってやっているようなのだ(生活の知恵?)。
静原を探索していて80代のお婆さんと出会い、話をしたら75歳まである大学で清掃の仕事をしていたという方だった。数人でその大学に働きに出ていたというから静原のご婦人は働きものだわ。
時おり年配のハイカーがこの道を歩いているのを見かける。鞍馬から大原へ、あるいはその逆のコースをグループで歩いている。途中の児童公園には最近できたのか綺麗な水洗トイレまである(ところが清涼飲料水などの自動販売機は集落に一か所あるだけ)。
静原には古くから伝わる元服の儀式(烏帽子儀)がある。満十五歳(最近は法令遵守で十八歳?)になると長男がこの儀式に出て成人として認知されるようだ。その準備がまた大変で、大島紬の武家の衣装は嫁の実家で揃えるのだとか(そんな話を昔聞いたことがある)。
静原城跡までは急峻な山道を歩いて四十分ほどで行けるようだが今回はパス。城跡には今でも数多くの石積が残っているという。静原城は16世紀に三好長慶が築城し、足利義昭に属していた愛宕郡の土豪・山本実尚が守っていたが、明智光秀の大群に包囲され落城したようだ。うーむ静原の里の構造が城塞のような造りに見えるのは、昔は武士や土豪が守っていたということなのだろうか。イカンイカンまた妄想があ!
石積が砦に見えなくもない!?(石積の上方に山城があった)
祭神は伊耶那岐尊(いざなぎのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。創建は4世紀、第13代成務天皇の時代(322)という。天武天皇が逆徒に襲われこの地に臨幸した際、身も心も静かになったことから、以来 志津原と呼ばれていたこの地を「静原」と称するようになったのだとか。
狛犬はいつの時代のものだろうか なかなか趣がある。
かつて神社後方の山には山城(静原城)があった。
静原の里は戸数140戸、総人口560人(令和2年)ほどである。高台から静原を見渡すと けっこう人家が密集していることがわかる。東西の広い範囲に田畑が広がっている。
静原川は市原で鞍馬川と合流する。静原の里は南側に川、そしてそう広くはない田畑がある。北側には小規模ながらも棚田と猫の額のような畑と急峻な山をひかえ、そこには山城があった。それはまるで城郭のような集落である。
あの山(金毘羅山)の彼方に目指す大原寂光院がある。
江文峠付近から金比羅山に登る道がある。この道は翠黛山を通り大原寂光院へ抜けることも出来るが、大層険しい道なので輿(後白河法皇が乗る輿です)でゆくことは無理なので他の道を探すことにする。次回はその道を通り大原へ行こう。
※土曜・日曜日は大原ー鞍馬(貴船)間は京都バスが日に三本あります(今では府道40号線という立派な道路が市原から大原まで出来ているのでマイカーでもいいけど、峠での駐車スペース確保は困難かも)。
※次回は大原の里へと続きます。