まだ夜の明けきらない未明のうち、都を立った後白河法皇一行が洛北市原、そして静原の里を越えて江文峠に着いたのは午後も遅い時間だったろう。わたしはと言えば、情けないことに電車とバスを使っても江文峠までニ日かかっている(若い頃なら一日の行程だったろうに)。
後白河法皇一行は、金毘羅山の麓を通って大原寂光院へ向かったのだろう。
前回はここまでの行程だった。金毘羅山へ登り、翠黛山を越えて寂光院に到達することもできるが、ここは山麓を通って行くことにする。おそらく後白河法皇一行もその道を選んだことだろう。
途中に大原の氏神 江文神社が鎮座しているのでお参りしていこう。
江文神社の南には石積の里・井出町がある。ちょっと寄り道をしていこう。
住宅の周りを石積が囲んでいて、まるで要塞のようだ。大原、八瀬、高野、市原などは古くは小野氏の所領だったことも関係しているのだろうか。出雲系や賀茂氏との諍いもあったのかも知れない(それほど古い石積とは思えんけどネ)。
中世から近世に入り、信長の比叡山焼打ちなど戦乱に巻き込まれたことも頑丈な石積を造った要因ではないか、などと推測しているのだけれど実際どうなのだろうか。現地のお年寄り(ワシと大して歳の差ないけど)に尋ねても明確な答えは返ってこない。
比叡山の反対側(琵琶湖側)には坂本という土地がある。そこは城郭の石積を専門にしている穴太衆が積んだ穴太積(あのうづみ)という石垣がある。地元だけあってとても立派な石積が町を縦横にめぐらせているので一度は見ておきたい。
“ 遠山にかかる白雲は、散りにし花のかたみなり。青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞおしまるる ”
“ ころは卯月二十日あまりの事なれば、夏草のしげみが末を分け入らせ給ふに、はじめたる御幸なれば、御覧じなれたるかたもなし。人跡たえたる程もおぼしめし知られて哀れなり ”
“ 西の山のふもとに、一宇の御堂あり。すなわち寂光院これなり ”
山のふもとに一棟の御堂が建っていた。これが目あての寂光院である。古びた山水や木立など、いかにも由緒ありげである。
『平家物語』壇ノ浦合戦 ー 安徳天皇身投げ
源氏のつわものどもが、平家の船に乗り移って来たので船頭や舟子たちは、あるいは射殺され、あるいは斬り殺されて、今は船をあやつることもできなくなり、みな船底に倒れ伏した。新中納言知盛卿は小舟に乗って、主上(安徳天皇)の御座船にこぎよせ、
「はやいくさも、これまでと思われる。最期をいさぎよくするため、見苦しい物は海へうち捨て、船を掃き清めたがよい」……
二位殿(安徳天皇の祖母)は、かねてから覚悟をきめていたことだったので、喪服用の浅黒いニ衣を被き、練袴の股立を高くとって、審爾(しんじ)の御箱を小わきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上(安徳天皇)を抱きまいらせて、
「わたしは女子ではあるが、敵の手にはかかりませぬ。主上の御供をしてまいりますゆえ、志のある人々は、急ぎ続きたまえ」
と言って、しずしずと舟ばたへ歩み出た。主上は、今年八歳でいらせられたが、御年よりもはるかにおとなびて、あたりも照り輝くばかり美しく、黒い御髪をゆらゆらと、お背中の下までたれていらせられた。主上は局の言葉に、いたく驚かれた御様子で、
「尼ぜ(お祖母さま)われをいずちへつれて行くのじゃ」
との仰せに、二位殿は、涙を溢れ落し、
「君はまだ、ご存じではありませぬか。…いま天子とお生まれあそばされましたなれど、悪縁に引かれて御運もはやお尽きになられたのでございます。まず、東に向って、伊勢大神宮においとま申しあげ、それから、西に向って西方浄土のお迎えをいただくよう御念仏をあそばしませ。この国は物憂きところ、あの波の下にこそ、極楽浄土なるよき都がございます。尼ぜがこれより、そこへお連れ申し上げます。」
主上は…それをお聞きになると、おん涙にくれ、小さな美しい御手を合わせて、まず東に向って、伊勢大神宮においとまごいなされたのち、西方に向かわせられて、御念仏をあそばされたので、二位殿はすぐさま抱き奉って、
「波の底にも、都がございます」
とお慰め申し上げ、千尋の底へと沈んでいった。
女院(建礼門院・安徳天皇の母)はこのありさまをごらんになり、今はこれまでとおぼしめされたか、御温石(懐炉のようなもの)と御硯を左右の懐に重しとして入れ、海にはいらせたもうたのを、源氏のものが小舟をつとこぎ寄せて、御髪を熊手にかけて、引き上げ奉った。それを見て大納言佐の局が、
「あなあさまし、その方は女院にておわしますぞ、無礼いたすな」
と叫んだので判官(義経)に告げて、急いで御座船へ移し奉った。
物語は飛んで大原寂光院へ
後白河法皇が “ 女院の庵室をごらんになると、軒には蔦や朝顔がはいかかり、忍草にまじって萱草がおい茂っている。…
杉の葺目もまばらであるから、時雨も霜も、置く露も、漏る月影とあらそって、防ぎようもなさそうなありさま。…
…そのそばは、女院の御寝所と見え、竹の竿に麻の御衣、紙の御寝具などがかけられ、本朝漢土の粋を集めた、繚乱錦繡の御衣装も、今は昔の夢と消え果ててしまっている。あまりの労しい変わりざまに法皇が御涙を流されると、お供人々もいまさらのように、以前宮中で過された女院の御日常を思い出して、万感に袖をしぼった。“
これまで四日間にわたり、『平家物語』大原御幸で後白河法皇一行が歩いた道をたどってきた(若い頃なら二日間の行程か)。物語では一日で歩いたことになっているが、それはかなりの強行軍であると想像する。
長い年月をかけて琵琶法師(都には二つの流派があったようだ)が語り継いだ物語であるから、史実としてはどこまでが真実なのか判然としないが、文字として物語を読むより琵琶法師の語る物語を聴いてみたいものである(長楽寺ではあるようだ)。
※今回四日間山中を訪ね歩いて、左右の脛を二カ所ヤマヒルに食われていたことが判明したので、ヤマヒルが活発に活動する季節には忌避剤、塩など持ち歩く必要がある。北山を歩く者はご用心あれ。
【参考図書】
『平家物語』新日本古典文学大系(岩波書店)
『平家物語』現代語訳:中山義秀(河出文庫)