泉涌寺へ向かうには総門をくぐり抜け長い参道を歩く。
り、細く長い道を歩いてお参りすることになる。
ある年の春、鳥戸野陵と泉涌寺近辺を歩いてみたのは、
地であることによる。
泉涌寺は皇室と深いつながりがあり、付近には江戸
が眠る月輪陵などがある。
ることに気づいた。たわわに紫色の実を付けているの
は、幾度も見て知ってはいたが、花を咲かせているの
をじっくり見るのは初めてである。
にあったとのこと、地理に明るかったこともこの地に住
む理由の一つだったのだろうか。
鳥辺野陵への道
総門をくぐり、木立に囲まれた参道を少し歩くと、
左手に今熊野観音寺と鳥辺野陵へ向う道に出る。
右の道が陵へ通じる道。左側の道は今熊野観音寺
へ至る道である。
長保二年(1001)十二月十六日未明、定子さま崩御。
二十七日葬送、その日は雪が降りしきる夜であった
という。
野辺までに心ばかりは通へどもわがみゆきとも知らずやあるらむ
一条天皇(定子葬送の夜に詠む)
わずか二十四歳(二十五歳とも)で御産の後に崩御された
“ 悲劇のヒロイン ” 定子様の陵をお参りしたく、天気予報を
見ながら敢て少雨の日を選び鳥戸野陵を訪ねた。
以前からこの場所に陵のあることは知っていたが、このよ
うな寂しい場所にどなたが眠っているのだろうか、と頭に
浮ぶことはあっても、それ以上調べることはしなかった。
晩年の清少納言
「元輔が昔住みける家のかたはらに清少納言住みしころ、
雪のいみじく降りて隔ての垣もなく倒れて見わたされし
に、あともなく雪降る里の荒れたるをいづれ昔の垣根と
か見る」…『赤染衛門集』
と文献に残されているように、晩年は零落した様子が窺
える。
ちなみに清少納言の墓はどこにあるのだろうか、四国に
あるという説もあるが判然としない。思うに泉涌寺近辺、
あるいは少し北にある「鳥辺野」あたりに葬られたと考
えるのが自然ではないだろうか、と思うのだが…。
春ならば鳥戸野陵を参詣したあとに、北へ剣神社に出る道筋を
五分ほど歩けば、谷間に咲く枝垂桜を見ることができる。あま
り知られていないが、立派な枝垂桜である。例年三月下旬から
四月上旬に見事な花を咲かせる。
「春はあけぼの…」で始まる『枕草子』は、古典の授業で必ずといって
よいほど出てくる上にテストにも出るので、心地よい思い出を持ってい
る人は、そう多くはいないのではないだろうか。しかし、ある年齢に達
すると『枕草子』の面白さが分ってくる、そんな気がするのだ。
その随筆の作者が女房として仕えていた主が、一条天皇の后である定子
様である。後に彰子様も中宮になり、二人の后が誕生したのである。
このいきさつには彰子の父である藤原道長の策があったようである。
清少納言と紫式部の間には面識は無かったように思うが、紫式部の日記
を読みとくと清少納言にライバル心を持っていたようにも見える。
『紫式部日記』のなかで「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける
人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、
まだいと足らぬこと多かり。」つづけて、風流を気取ったひとは行く末
は異様なばかりにになってしまう、と清少納言の晩年の姿を知っている
かのように書いている。
清少納言は『枕草子』のなかで(紫式部の夫になる)藤原宣孝のことを、
吉野金峰山に参詣するのに派手な衣を着て参詣したことを人々の口を借
りて、昔から金峯山詣に派手な行装の人は見たことがない、と書いてい
たことへの仕返しと読み取れないこともない。