平安朝文化サロンの面々
一条天皇の后である定子様が崩御された後、その「サロン」の後を
ついだのは彰子様の「サロン」であった。定子様に仕えていた清少
納言が後宮を去った後、彰子様のサロンのてこ入れに、父であり又
一条天皇の時代、後宮には清少納言、それに紫式部がいたのは驚く
ほかない。彰子様の後宮には、ほかに和泉式部や赤染衛門、それに
伊勢大輔といった方々が仕えていたのであるから、この時代が生ん
だ女流作家(女房)にはそうそうたる面々がいたということになる。
現在は蘆山寺という寺院になっている。平安時代にはこの辺り
御所は現在の御所より西にあった)まで約2㎞ある距離を歩い
て通っていたのだろう。
うだ。ここで蘆山寺の建物を少しばかり紹介したい。
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月影
と目と鼻の先にある。現在の仙洞御所付近に 藤原道長邸 、
寺町通をはさんで東に蘆山寺がある。家が近かったことも
あり、紫式部の秀才ぶり(漢学素養が豊だったという)が
得ていた)。やがて紫式部は、彰子様の文化サロンを盛り
立てるため(?)彰子後宮に女房として仕えるようになっ
た。
関白 藤原道長邸
「秋の気配が立ちそめるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、
えもいわれず趣をふかめている。池のほとりの樹の枝々、遣水
の岸辺の草むらが、それぞれ見渡すかぎり色づいて、秋はおお
かた空もあざやかに見える。それら自然に引き立てられて、不
断の御読経の声々がいっそう胸にしみいる。
やがて涼しい夜風の気配に、いつもの絶えせぬせせらぎの音、
その響きは夜通し聞こえつづけて、風か水かの別もつかない。」
……『紫式部日記』彰子出産の秋
このよをば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば
ラもどきの扱いを受けたことが日記に残されている。歌に
詠まれているように、道長は関白であり実力者なのだ。
壮大な伽藍の法成寺
実子を入内させ権力を握ったとされる。平清盛を彷彿させ
るような行いである。そして摂政を嫡子頼通に譲り、晩年
は自邸の東に壮大な規模の法成寺の建立に精力を傾けたよ
うだ。
極楽往生を願い、法成寺の西に九体阿弥陀堂を造り この世
を去るにあたっては、西方浄土を願いながら往生したかっ
たのだろう。壮大な法成寺の伽藍もたび重なる火災や兵火
で今はその影もない。その法成寺だが、京都御苑の東隣、
蘆山寺のすぐ南、現在鴨沂高校の一画に跡地とされる場所
がある。
紫式部の墓
ところで紫式部の墓はどこにあるのだろうか。京都のガイドブック
には、北大路堀川の南、住宅と工場に囲まれた目立たない場所にあ
る、と紹介されている。40余年前、そこを訪れたことがある。今で
は綺麗に整備された墓所になっているが、当時はこんもりとした小
さな築山が二つあるばかりで、訪れるものなどほとんどいないよう
な状態に見えた。
ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪
"『紫式部日記』にも描かれる「憂さ」は生涯消える
ことがなかった。だがそれを抱えつつ、やがて憂さ
を受け入れ、憂さと共に生きる境地に、紫式部は達
したのである"
…山本淳子氏