令和二年 京都御苑 ー 静かなる春に想う

 

f:id:sasurai1:20200427131353j:plain

 

外出自粛の中 Sony RX100(リッチトーンモノクロ)での記録 

令和二年の日本は、どのような年として歴史に記録されるのだろうか。

年が明けてからというもの、京都市内には中国からの観光客が大波の

ように押し寄せ、いたるところでその国からの家族連れの姿を見かけ

たものだ。京都御苑も例外ではなく、中国からの観光客であふれかえ

っていた。

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131414j:plain

 

ところが一転して、今は閑散としている。新型コロナウイルスによる

感染防止のための諸施策が効果を上げているのだろう。でも、かつて

の静かな京都御苑が帰って来たとは素直には喜べない。

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131430j:plain

 

 

 

沈黙の春』を想う

わたしが若いころに『沈黙の春』という本が大分話題になったことが

ある。著者はレイチェル・カーソン。その本の一章に…

「あるときどういう呪いをうけたわけか、暗い影があたりにしのびよ

った。いままで見たこともきいたこともないことが起こりだした。若

鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。ど

こへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれが病気になったとい

うはなしでもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあ

とへと出てくるのに、とまどうばかり。

そのうち突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけ

ではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気

分が悪くなり、二、三時間後にはもう冷たくなっていた。

自然は沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったの

か。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。・・・

春がきたが沈黙の春だった。」

 

※なにやら武漢起源の新型コロナウイルスの記述を思わせるような一

章ではないだろうか。そしてまた、家族連れの遊ぶ姿が消えた京都御

苑を想起させる。

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131447j:plain

 

この三ヵ月間外出自粛を心がけていたせいか、足腰が弱ってきたよう

に感じられる。春も終わりにさしかかり、今回散歩がてらに小型カ

メラをポケットにしのばせ 小一時間ばかり速足で歩きながらモノクロ

ームで撮影を試みた。

デジタルカメラには「ピクチャーエフェクト」という機能がある。

それを試して見たかっただけの事。コントラストのきつさには閉口し

たがそれも機能の一つと考えるとしよう。

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131506j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131522j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131547j:plain



 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131623j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131641j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131657j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131731j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131806j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131831j:plain

 

 

 

 

 

f:id:sasurai1:20200427131848j:plain

 

 

方丈記』に描かれた京都 治承四年水無月のころ

「言い伝えで聞くところでは、昔の賢明な帝の御治世では、

慈愛でもって、国をお納めなされた。それだから、帝の御殿

に茅を葺くにしても軒の茅の端をさえきちんと揃えて切らず、

民家の炊事の煙ののぼるのが少ないのをご覧になったときは、

一定の限度のある、人民から朝廷に納める物品まで免除なさ

れた。

これは、帝が民に恩恵を施し、世の中を救済しようとする目

的に基ずくのである。いまの世の様子は、昔にひき比べて、

いかに相違しているかをよく知ることができるのである。」

 

養和二年の流行病

「・・・仁和寺で、隆暁(りゅうぎょう)法印という人は、

こんな状態のまま、わからないくらい死んでゆくことを悲嘆

して、死人の首の目に入る度に、その額に阿字を書いて、仏

道に縁を結ばせる行為をなされた。その死人の数を知ろうと

して、四月・五月の二カ月にわたって計算したところ、京都

市内で、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀大路

ら東、すなわち、左京の範囲内で、道ばたにあった首は、全

部で四万二千三百あまりもあった。

まして、この四、五月の前後にも死んだ人はたくさんおり、

また、賀茂の河原や白河や西の京や、そのほかの、ありとあ

らゆる、畿内の辺鄙な地方などの死者の数を加えて言うなら

ば、きりもないであろう。なおましてや、七道に属する国々

のそれを加えたら、どれほどになろうか。」

方丈記』現代語訳:安良岡 康作氏

 

 

方丈記』に記録された鴨長明の生きた時代は、あまりにも

現代と状況が似ているように思える。ひとつ違うな、と思っ

たことは、為政者の民に対する"思いやり"のようなものだろ

うか。

長明の生きた時代、今の京都御苑は左京の北東の外れであり

都の鬼門の方角であったのだ。この辺りでも飢餓や疫病で亡

くなった民は数えきれなかっただろう。