「おくのほそ道」をゆく #03   芭蕉 古関跡(白河の関)を探す



芭蕉一行は日光を経て那須野にいたり、黒羽の城代家老浄法寺なにがしの

もとを訪ねた。

この地で二週間を過ごし、名所旧跡を案内され、ともに俳諧を楽しんだこ

とであろう。また芭蕉の禅の師匠の仏頂和尚の修行した雲巌寺を訪ね、

「石上の小庵、岩窟に結び掛けたり」という縦横五尺にたらぬ小屋を見る。


そして黒羽から殺生石に出かけた。城代家老浄法寺殿が馬を出してくれた。

殺生石を50年ほど前に見たことがあるが、白っぽい大岩が荒涼とした原野

に置かれてある、という趣であった。

また、西行法師が「清水流るる柳かげ」と歌に詠んだ柳は、蘆野の里にあ

って、今に残っている。芭蕉は今日こうして、その何代目かの柳に相対す

ることができた。




   田 一 枚 植 ゑ て 立 ち 去 る 柳 か な




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白河市郊外の田圃東日本大震災の翌年に撮影)






もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。

“いかで都へ”と便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一

にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、

青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪

にも超ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の

筆にもとどめ置かれしとぞ。」




白河関と伝えられるものは何か所もあるので、芭蕉一行はどれが古

白河の関址か尋ねまわったでことであろう。白河の関は五世紀前半

頃に設置され、蝦夷に対する防衛拠点であった。八世紀の末に縮小、

平安中期には廃止されたと伝えられているので、芭蕉一行がいくら尋

ねまわっても、数百年の時の差は大きく、関址の発見は徒労に終わっ

たのではないだろうか。



白河の関は「街道にのぞむ三千坪ほどの丘陵地帯に、柵をめぐらせ壕

をほり土塁をきずいて、軍団の兵士五百人が防備にあたっていた。関

の北一里半の関山とそれよりさらに遠く、阿武隈川かなたの烏峠に、

二つの監視所をおき、蝦夷が来襲した場合、狼煙をあげて危急をしら

せた。蝦夷がまだ征定されない、上古七世紀時分のことであろう」

という。…中山義秀氏 

 

「烏峠」(泉崎村)には、相当以前に わたしも登ったことがある。

標高500メートルほどの小高い山がに防塁のように連なり、ひときわ

尖った山なので遠目にすぐ分かる。頂上には稲荷神社があった。

また、烏峠の北東には泉崎横穴古墳があり、6世紀後半から8世紀初め

までの白河地方の中心地はこの一帯だったのではないかと推定されて

いる。

 
泉崎横穴古墳(国指定史跡)
烏峠の北東、泉川左岸の段丘に造られた横穴古墳。昭和8年、道路拡

張工事の際に発見された7基(6基は「消滅」)の内の一つ。東北で

初めて発見された装飾横穴古墳で側壁、天井部などに人物や馬、抽象

文などが赤い顔料で装飾されている。

古墳は6世紀末から7世紀初頭の築造ではないかと言われている。

わたしは子どもの頃、大人の中に紛れ込み横穴に入ったことがあるが、

内部はとても狭かった覚えがある。



芭蕉陸奥に駆り立てたもの
陸奥の歌枕には白河の関のほかに松島・塩竈の浦・壺の碑・武隈など

四十六か所に上がる歌枕の名があるという。芭蕉翁を「おくのほそ道」

に駆り立てたものは、陸奥の歌枕にあったことは当然として、

能因法師西行法師、それに宗祇や義経の足跡を追い、先人の思いを

吾が身をもって探り、旅路に創作を重ね、より高い嶺を目指したかっ

たのではないだろうか。




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山賤(やまがつ)の栖





ここで宗祇白河の関にいたった『白河紀行』をほんの一部だけ紹介

したい。芭蕉の文との比較が面白い。



「白川の関にいたれる道のほど、谷の小川、峯の松風など、何となく

常よりは哀れふかく侍るに、このもかのもの梢、むらむら落ち葉して、

山賤(やまがつ)の栖(すみか)もあらはに、麓の沢には霜枯れの葦

さげ折れて、さを鹿の妻とはん岡べの田面も、守人絶えて、かたぶき

たる庵に、引板(鳴子)のかけ縄朽ち残りたるは、音するよりは寂び

しさ増りて、人々語らひ行くに、奥深き方より、ことに色濃く見ゆる

を、あれこそ関の梢にて侍れと、しるべの者教へ侍るに、心空にて駒

のあしをはやめ急ぐに、関にいたりてはなかなか言の葉にのべがたし」


また、次のような歌を詠んでいる。


   都いでし霞も風もけふみれば跡なき空の夢にしぐれて



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時 雨