「おくのほそ道」をゆく #07 千賀の浦(塩竈湾)から松島へ

 
心は日本三景の松島へ

「おくのほそ道」をたどる旅、二日目は塩釜湾から始まった。歌枕に歌わ
れた松島は目と鼻の先である。塩釜から「青春18きっぷ」で電車で行くか、
それとも船で行くか決断しなければならない。芭蕉翁に倣い、ここは迷う
ことなく船で行くことに決定!

事前に乗船予約をすれば船賃が一割安くなるし、塩釜湾と松島の島々を堪
能できるのだから言うことありません。ひとつ残念なことは小雨が降って
いることだが、そこは “風流” としゃれこむとしよう。

「霧さながらに 山を包んだ雨も又なんとも言えない」と、芭蕉翁もいって
いる。



マリンゲート塩釜


朝一番(9:00)の遊覧船に乗り松島へ向う。乗船者はわたし一人だけ
だった。二階より上のデッキに登るには別途料金が必要。
大震災ではこの辺りも少なからず津波の被害にあったようだが、その
痕跡は今では見当たらない。

 

 

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塩釜湾

塩竈神社の鎮守の杜(一森山)が見える。

 



籬が島


わがせこを都にやりて塩竈の籬が島の松ぞ恋しき古今和歌集

 

“いとしいあの人を都に見送って、塩竈にある籬が島(まがきがしま)
の松ではないけれど、待つ(松)私はあなたが恋しくてたまらない”





塩釜は水産業の町として世間に知られているが、意外にも造船など重工業
も盛んである。





突然小型漁船が白波を立てて現れた。写真奥に見える白い建物は火力発電所







みちのくはいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱手かなしも古今和歌集

  

“みちのくはどこの景色もおもしろい。とりわけ塩竈の浦を漕ぐ小舟が、
引き綱で曳かれるさまは趣がある”

 

















コンクリートらしき人工物が見える(崩壊を防いでいるのか?)。
天を指さす「指」は何処へ?(大地震の爪痕のようだ)。

 




もそも、多くの先人たちの文藻に言いふるされていることではあるが、

松島は日本第一の絶景であって、まずは中国の洞庭・西湖に比べても遜

色がない。その地勢は、東南の方角より海を入れて入り海をかたちづく

り、湾内三里、かの浙江を思わせる満々たる潮をたたえている。島とい

う島のあるかぎりをここに集めて、そのうち、高くそびえるものは天を

指さす尊大の形を示し、低く横たわるものは波の上に匍匐膝行(ほふく

しっこう)する恭敬の状を呈している。あるいは二重にかさなり、三重

につみ重なって、左に分かれているかと思えば、またあるものは右に連

なっている。





小さい島を背負ったような形のものもあれば、抱いているような姿のも

のもあり、杜甫の詩にあるように、あたかも子や孫を愛擁しているかの

ごとくである。松の緑も色濃く、枝葉は潮風に吹き曲げられて、その曲

がりくねった枝ぶりは、自然のうちに、まるで人工をもって曲げととの

えたかのように思われる。その景色の美しさは、見る人をして恍惚とさ

せ、かの東坡の詩にいう、美女がいやが上にも美しく顔を化粧したかの

ごときおもむきがある。これは、遠い神代の昔、大山祇(おおやまずみ)

の神のなしたしわざであろうか。かかる造物主の霊妙な仕事をば、いっ

たい何人が彩管をふるい、詩文をおどらせて表し尽くすことができるだ

ろう。” (『おくのほそ道』現代語訳:穎原退蔵氏)

 

名文とも言える一章である。ここは是非とも原文を朗誦したいところだ。




松島湾





雄島


海に面した南北に細長い小島が、歌枕になっている雄島(松島の名の
由来はこの島にあるという)である。これから向う隠れた名所の島で
ある。



五大堂

小一時間で松島港に到着した。目の前には松島といえば ここ五大堂。
晴れ間が見えてきたので松島散策に期待がふくらむ。





ヤマユリ咲く雄島への道



骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に物有。かりに名付て

風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにや

あらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごと

ゝなす。……

 

西行の和歌における、宗祇の蓮歌における、雪舟の絵における、

が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、

造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずとい

ふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあ

らざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、

造化にかへれとなり。」…松尾芭蕉笈の小文』草稿冒頭の文

 

気迫のこもった文章である。松尾芭蕉という人はただの俳諧宗匠

はない(わたしが言うのもなんですが)。とは言え杜甫の影響を受

けたとみえ、漢詩文体調で現代人には分りにくい。もう少しくだい

た内容でも読みたい気がする。そこで同郷の大先輩である、中山義

秀氏の現代語訳を併せて紹介することにしたい。



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雄島を望む




「百の骨九つの穴から成る人体には、風羅坊とも名づくべき精霊が

いる。薄くて風に破れやすい、芭蕉葉のごときものだ。この風羅坊

俳諧が好きで、とうとう一生の仕事とするようになった。ある時

は倦きて棄てようかと思ったり、逆に進んで人に勝誇ろうとしたり、

あれこれと迷いぬいて、心の安まることがない。一旦は立身出世を

願っても、これにさまたげられ、学問してその愚かさに覚めようと

しても、この為に思いを破られ、とうとう無能、無芸の身をもって、

俳諧一筋に生きることとなった。


和歌、連歌、絵画、点茶と、達人等の志した道は、それぞれ異なっ

ていても、帰するところは風雅の精神一つである。この風雅の情

(こころ)は、自然の運行にしたがって、四季の眺めを友とするも

のだ。見るところ花でないものはなく、思うところ月でないものは

ない。像(かたち)に花を見ない者は蛮人とおなじく、心に月を思

うことない者は、鳥獣に類している。蛮夷、鳥獣の境涯からぬけだ

して、造化の自然に眼をひらくべきだ。

つまり芭蕉の風雅の哲理は、自然との一体化を説くところにある。
森羅万象、すべて自然の恵みによって在る、というその観想は、
汎神論と原理をともにする、東洋の美学であろう。」



※続きます


 

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