「おくのほそ道」をゆく #12 毛越寺に藤原三代の願いと芭蕉の面影を見る


毛越寺に平安王朝遺構の浄土庭園を観る
さて中尊寺を出た芭蕉一行は、南部地方へ向って北上する街道を
はるかに見やり、道を南西に転じた。向うところは出羽の国。
当時は廃寺同然で建物は失われ、基壇だけが残っていたであろう
毛越寺には立ち寄らなかったのだろう。

毛越寺中尊寺より南へ徒歩で半時間余りの距離にあり、途中に
は円錐形の金鶏山がなだらかな山並を見せている。そして毛越寺
の東隣には二代基衡の妻が建立した観自在王院(跡)がある。

わたしはと言えば、綺麗に整備された毛越寺庭園を見てみたい、
という思い(ただ写真を撮りたいだけ)が強く、それで立ち寄っ
たのである。


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毛越寺東門



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毛越寺本堂

 

 

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大泉が池には、かつて中之島を中継し対岸の金堂へ渡る朱塗りの
反り橋を渡していたという。さぞ壮観だったことだろう。


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大泉が池越しに常行堂を望む


広大な境内の規模を誇る毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)、
三代秀衡(ひでひら)が造営したものだ。当時の伽藍は中尊寺をしのぐ
規模だったという。

当時の堂宇は全て焼失し今に残っていないが、堂宇や庭園の遺跡が良好
な状態で残された。境内に足を踏み入れ、まず一番に目にするのは清々
しく映る大泉が池だろう。境内に広がる大泉が池は、平安時代の浄土庭
園の美しさを今に伝えている。


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周遊路を時計回りで進む。



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開山堂




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経楼跡より本堂を望む




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遣水付近より本堂を望む



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遣 水




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遣水は北側の山から流れ出て大泉が池に入る

修復整備された遣水では、毎年五月に「曲水の宴」が催される。



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金堂円隆寺跡、写真奥には常行堂が見える


毛越寺の伽藍は金堂はじめ講堂、常行堂、南大門などを中心に建立。

金堂は金銀をちりばめ、紫檀赤木(したんしゃくぼく)などを継ぎ、
本尊は薬師三尊・十二神将像を安置したという。

仏像の作成は運慶
だったというから、今に残っていたならさぞかし
見事なご本尊を拝
むことが出来ただろうにと、残念で仕方がない。



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常行堂



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常行堂



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州浜越しに池中立石と本堂を望む




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州浜より鐘楼跡を望む




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出島と池中立石

 

藤原三代の願いは、人と獣と戦の犠牲になった霊を浄土へ
奥州藤原氏初代清衡は、前九年合戦(1051~62)・後三年合
(1083~87)で九死に一生を得る。幾多の戦いで親兄弟、
妻子
を含む多くの人々の悲惨な最期を見て来たに違いない。戦
場は
文字通り血で血を洗う、まさにこの世の地獄だっただろう。

どうしたら戦乱のない世をつくることができるだろうか。思い
悩んだ清衡は仏教に帰依し、やがて平泉の地に浄土思想に基づ
仏国土をつくろうと決意したのだという。

奥羽の覇者となった清衡は朝廷に貢納を欠かさず良好な関係を
保ち、金山開発や交易に力を入れて財力を蓄えた。平泉は交易
をするには北上川を通じて太平洋に出ることが出来るという地
の利があった。また陸奥は世界でも最大級と言ってもよいほど
の金の産出地なのだった。

「やがて、国家鎮護のために平泉に寺院を建立する許しをもら
った清衡は、いよいよ仏国土づくりに邁進した。

金色堂が完成した2年後の大治元年(1126)、清衡が71歳のと
き、主要な堂宇伽藍ができあがったことを祝し、壮大な中尊寺
落慶供養が挙行された。

このとき清衡が読み上げた『落慶供養願文』には、『官軍や蝦
夷を問わず、また人だけでなく獣や鳥など犠牲になったすべて
の霊を慰め、極楽浄土に導きたい』と記されている。」
…岩手日日新聞社「岩手大陸」より

初代清衡の願いは二代基衡、三代秀衡に受け継がれている。



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大泉が池越しに 常行堂を望む


池の周りを一周し、大門跡に戻ってくると、木立の下に芭蕉の句を
刻んだ石碑のあることに気づいた。石碑があることは知ってはいた
が、芭蕉の あの句だったとは(何故この場所に?)。
ガイドさんが、団体の方々に石碑の説明をしていなければ見落とす
ところだった。



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「夏草や兵どもが夢の跡」  芭蕉の真筆と伝わる石碑 (左側)



        夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡


この句は芭蕉の代表作の一つである。芭蕉杜甫の「春望」を頭に
描いて句をつくったのだろう。芭蕉の笈(おい)のなかには西行
歌集とともに、いつも杜甫漢詩が入っていたであろう、そう思わ
ずにはおれない。
芭蕉は当時の俳諧師のなかでは読書家であった。唐時代の詩人の本
をたくさん読んでいたことは、芭蕉の句や俳文を読むことによって
思い至る。


杜甫を師とした芭蕉
そこで疑問に思うことは、どこが良くて芭蕉杜甫の詩に親しんだ
のだろうか。 同時代で杜甫の友人でもある、李白という大詩人もい
た(こちらも若いころより各地を旅した)のにである。 はじめわた
しが思ったことは、その境遇が似ていたからだ、と想像した。そし
て双方とも旅に人生を費やし、文芸にその一生をかけたという共通
点がある。またどちらもちょっと堅い感じの詩と句を詠む。そんな
ところが好きだったのかな、と簡単に考えた。

杜甫の詩が好きだったから、とは単純には言い切れないところがあ
る、と小説家で芭蕉研究者の幸田露伴は言う。

芭蕉と杜小陵と甚だ似たところが無いでは無い。これは芭蕉の天
性に出たか、それとも杜小陵先生を朝夕の友としたによって得たと
ころであるか知らぬが、其の相似たる一点は確に芭蕉をして其の深
さと大さとを成さしめたものである。それは何かと云ふと、詩的良
心、芸術的良心を欺かないで、如何にも其の真気を保ったことであ
る。
若し杜小陵と芭蕉との似たところを挙ぐれば、唯此一点は酷だ相似
て居る。……芭蕉は平生一句一語にも三思九思してゐたのである。
…実に芭蕉は老杜と同じく其の崇高な芸術的良心の火炎を盛んに熾
して絶ゆる間なく一生を終わったのである。で老杜の詩は規格森厳、
芭蕉の句は精神充溢してゐるのである。……俳句は微なものである
芭蕉の語は下すおのづから来歴有り、西行を学んだと云はれても
西行の声を似せ貌を肖せては居ない。芭蕉の親しむだ三人に於て、
自分は芭蕉の或点を看得る気がする。」
露伴芭蕉西行・杜子美・黄庭堅』より

さすがに大小説家にして芭蕉研究者ともなると、凡人の見るところ
とは相当に違っていて深い。

 

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