秋田 男鹿半島にナマハゲ伝説の五社堂を訪ねた


赤神神社五社堂を訪ねる ― 「泣く子はいねぇが」

男鹿半島の南部に門前という漁港がある。この土地は、中世の頃には
赤神山日積寺永禅院の門前町として栄えた
ところである。今、そこに
は赤神神社五社堂がある。
鬼が一夜にして築
き上げたという999段の石段と男鹿のナマハゲ伝説
に思い
を寄せ、秋田駅でJR男鹿線に乗り門前に向った。


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JR男鹿線なまはげライン)・男鹿駅


真新しい男鹿駅を出るとすぐ右手に門前行きのバス乗り場がある。
重たいリュックザックを駅構内の観光案内所に預けようと思った
が、午前九時からの営業なのでまだ開いていない。仕方がないの
で背負ったままバスに乗り込んだ。
乗客はわたしを入れて3人だけである。ほかの二人(中国からの
観光客のように見えた)はバスの終点である門前の手前、SNS
人気スポット、秋田のウニ塩湖と呼ばれる鵜ノ崎海岸で下車した。



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石碑の彼方には門前集落が見える



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門前港

中世には赤神山日積寺永禅院の門前町として栄えた港である。
さほど大きな集落ではないが数軒の宿がある。



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なまはげ立像

門前のバスターミナルには高さ9.99mの なまはげ立像
がある。「ナマハゲ伝説」五社堂の999段の石段にちな
んだものという。

 




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五社堂入口 (遥拝殿 )

バスを降り、五分ほど歩けば五社堂入口がある。車道をもう少し西
に行けば広い駐車場があり、そちらからも五社堂へ行ける。



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五社堂参道




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仁王門


前日に参道の草刈りをしたようで、赤神神社五社堂への道は
きれいに整備されていた。
かつての 赤神山日積寺永禅院(盛時9カ寺、48坊があり大伽
藍が建ち並んでいたという) の仁王門が見えた。仁王は運慶
の作というが、 現在の仁王像はとてもそうは見えない^^:
明治の
廃仏毀釈で打ち壊されたのだろうか。




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菅江真澄の道」案内板



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四阿内の案内板


遥拝殿脇の石段を上ればすぐに四阿と案内板がある。隣には意外や
意外、広い駐車場と公衆トイレまで備えてあるので、団体さんが来
ることもあるのだろう。

江戸時代初期に描かれた絵図を見ると、四阿のある場所には鐘楼、
そして池の西側には食堂があったようだ。そして参道
の両側には多
くの寺があった。



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永禅院跡にある池


「食堂はいかめしく、蓮の生えている池の面になかばさしでて
作られ、ささやかな中島に弁財天女の小さな祠があって、松の
生いたっている風情はことにおもしろい。薬師仏・不動尊・地
蔵大士・普賢・十一面観音・釈迦仏・千手観音、あるいは伊勢
の神垣がある。」

※ 引用は『菅江真澄遊覧記』男鹿の秋風(文化元年・1804)
 より。現代語訳:内田武志氏


真澄の文には、明徳3年(1392)に鋳られた大鐘や、元徳3年
(1331)阿部孝季が建てた多宝塔まで紹介されていて、当時
赤神山日積寺永禅院の規模の大きさが推察できる。



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池の北側には男鹿の絵図(複製)がある



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狩野定信の描いた男鹿の絵図(山頂近くに五社堂が見える)



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鬼が築いた999段の石段


「むかしはこの山に天真穴(金杭)があったのだろう。葦倉泉元
といって、金を掘ったという谷がある。それは、所々にある岩窟
をみてもうなずかれた。蓮花台から西北の細道をたどって行くと、
古い塚原と思われるところがあって、苔むす五倫石・無縫塔など
が倒れ伏していたり、砕けたりしている中に、新しい石碑も茂る
草のなかに、たくさん立っている。
…徐福の塚といって、わずかに埋もれ残っているところがある。」
菅江真澄遊覧記』男鹿の島風より

 

 

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この場所にも寺があったのだろう



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参道わきの石仏?




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時おり参道に日がさしてきた



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遥拝殿から20分ほどで五社堂へ着く



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御手洗の池跡




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姿見の井戸


男鹿半島を旅していると、あちこちに「菅江真澄の道」という
標柱を見ることが出来る。半島だけでなく、この標柱は秋田県
のいたるところにあるようなのだ。

今回の旅は、松尾芭蕉の足跡を追う旅だが、菅江真澄の足跡を
たどる旅でもある。何のことはない、『菅江真澄遊覧記』第五
巻「男鹿の秋風」他を読み、はるばる関西から男鹿半島くんだ
りまで足を運んだのである。



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井戸の中を覗く

「坂をはるばるとのぼると、姿見の井がある。この水鏡が
くもって、姿がぼんやりとうつった人は命が長くない、と
いう水占いがあるという。」…菅江真澄遊覧記』男鹿の秋風

わたしの姿はぼんやりとも映らなかった、ということは? 



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赤神神社五社堂(国指定建造物重要文化財


気温30℃を越える中、999段の石段を上り終えて五社堂に着いたこ

ろには全身汗だくであった。お参りを済ませ、辺りにはだれもいな
いのでワイシャツ
を脱ぎ、Tシャツ姿で休憩。
そして写真撮影に入った。


五社といって、五柱の神が並びまつられている。この五つの神社
はみな萱ぶきで、その様式はいまのものとは異なり、むかしを偲ぶ
ことができる。古いうつばりふだに、建武二年(1335)には安倍
季、応安五年(1372)に高季が修理を加えたとある。」
引用は『菅江真澄遊覧記』男鹿の秋風より


ところで菅江真澄って誰?

菅江真澄は江戸時代に三河で生まれれ育った人で、三十歳の頃
天明の飢饉のころ)より信濃を皮切りに陸奥を歩き、各地の人々
の風俗を後世に
残す。当初、蝦夷の住む北の国を目指したが、なか
なか蝦夷地に渡
れず、その間機会をうかがいながら陸奥を縦横に歩
く。あまり知られていないことだが、三内丸山遺
跡や十三湖(木造)
の縄文遺跡の存在を早くから世に紹介している。


蝦夷地から本州へ戻ってからも津軽、下北、秋田をくまなく探査。
津軽藩では一時「お抱え医師」の任を受けていたこともある。晩年
秋田藩、佐竹義和公の招聘で仙北地方の風俗を調査する。調査中
に角館で病没(文政12年 1829)。享年76歳だった。

各地を調査した文章のほとんどは、 佐竹義和公に寄贈され、それが
内田武志氏の現代語に訳されて、東洋文庫菅江真澄遊覧記』とし
て残っている。その著作は民俗学や風俗の研究に貢献をしており、
柳田国男氏は菅江真澄のことを「日本民俗学の祖(おや)」と言っ
ている。

ひと言でいえば、四十五年にわたり漂泊の旅に一生をおくった本草
歌人・紀行作家なのである。姓名を幾度か変更し、謎の多い人
でも
ある。



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赤神神社五社堂


赤神神社五社堂とは?

縁起によると、貞観二年(860)、慈覚大師円仁が当地に
来て赤神山日積寺永禅院を創建したのに始まり、建保四年
(1216)比叡山の山王七社を勧請して造営されたが、うち
2社が廃れたため五社堂となったといわれている。

正面入母屋造、背面切妻造の社殿が五棟、横一列に並ぶ。

向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげん
どう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と称
している。現在の五社堂は、宝永7年(1710)の建立とい
う。平成十年から平成十四年まで大修理が行われたので、
比較的真新しく感じられた。

写真右端、客人権現堂には円空作と伝わる十一面観音立像
(県指定有形文化財)が収められており、年に一度公開さ
れているようだ。神社に円空仏があるのは、明治の廃仏毀
釈(明治以降、神社として独立した)と関係しているのだ
ろう。



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赤神神社五社堂(中央堂)



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中央堂




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赤神神社五社堂(中央堂)内厨子 ・国指定重要文化財

赤神権現堂内に安置されている厨子で、堂より古く室町時代
後期のものという。


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社殿にはおびただしい彫刻が施されている



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ナマハゲ発祥の神社 ー 赤神神社五社堂

ナマハゲ伝承には多くの説がある。社務所の文によると
「男鹿のナマハゲ(行事)には、元、モデルとなっている
五匹の鬼がいます。眉間(みけん・父)、逆頬(さかつら
・母)、眼光鬼(がんこうき)、首人鬼(おおびとき・子)
、押領鬼(おうりょうき)。
なまはげ(人間+面)行事の、元、モデルの鬼を今日に伝
える神社が赤神神社五社堂です。」ということである。
そう言われても、何だかよく分からんわ?

ナマハゲ伝承の一つに修験者説がある。この山のナマハゲに
は牙が無いというので、わたしもこの説(オイオイ拙速やな
いかい?)をとる。

ナマハゲは役行者の配下だった?

修験道の開祖である役行者大和国にいたころ、配下として
いた鬼が前鬼(義覚・ぎかく)、後鬼(義賢・ぎけん)とい
う夫婦の鬼である。この夫婦には五人の子があったとされて
いて、今でもその子孫(?)が大峰山の麓に修行者のために
宿坊を開いている。

五人は それぞれに名があって、五鬼助、五鬼上、五鬼継、五
鬼童、五鬼熊という。またそれぞれ宿坊を持っており五つの
宿坊があった。その内で一つ残っているのが小仲坊で、 五鬼
助(ごきじょ) さんが宿坊を守っている。ほかの四人の子孫
は、明治の頃より次々に宿坊を閉めて出て行ったという。

こんな話をするわけは、修験者は全国各地を巡り修行をする
ようなので、羽黒山、男鹿本山・真山などにも当然修行に出
向いているはずなので、ナマハゲ伝説の修験者説も十分に考
えられると思うのである。という数字には何か深い意味が
あって、赤神神社五社堂 とも なにか関係があるかもしれない、
というハナシなのである。



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長床跡(読経するところ)



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社務所


文化八年(1811)の正月を八郎潟の西、宮沢(南秋田郡琴浜村)
という村の漁師の家で迎えた菅江真澄は、十五日にナマハゲ行事
を体験している。そのことを紀行文に残しているので、その一部
を紹介しよう。

「夕暮れふかく、灯をともして炉のもとに、みながくるま座とな
っているとき、突然、なまはげがはいってきた。角が高い丹塗り
の仮面を冠り、黒く染めた海菅(淡水藻の一種と言うが、今の何
かは不明)の髪をふり乱し、けら(肩蓑)というものを着て、何
が入っているのか、からからと鳴る箱をひとつ背負い、手には小
刀を持って、“わあ”といいながら不意にきた。“それ生身剥(なま
はげ)だ”と、童はびっくりして声もたてず、人にすがりつき、
ものの陰に にげかくれる。これに餅を与えると、“わあ、こわい
ぞ、泣くな”などとおどすのである。」
菅江真澄遊覧記』男鹿の寒風より



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帰り道



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よく整備された石段



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参道脇のブナ林



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かつては参道の両側に多くの寺院があった



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駐車場のある場所に到着



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駐車場から毛無山(五社がある)を望む



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駐車場から見る日本海の眺め(鳥海山が望める)


五社堂へのアクセス

五社堂のある門前を訪れるには、バスは本数が限られているので
あまり おすすめできない。自家用車で巡るか、男鹿駅前に観光
タクシー
( 幾つかのコースが用意されている )があるので それ
を利用するのがよろし。
駐車場には公衆トイレもあり、眺めも良
いところである。
撮影年月:2019.7

※続きます