秋田 男鹿半島に潮瀬崎ジオサイトと独特の丸木舟を探る旅

 

朝早い時間に門前行きのバスに乗った。乗客は中国人らしき二人と
わたしの三人だけである。SNSの人気スポット、秋田の
ウニ塩湖と
呼ばれる鵜ノ崎海岸などを窓外に見る。

潮瀬崎では、夏休みに入っているので、家族で海岸キャンプを楽し
んでいる姿が目に入った。


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男鹿半島南部の海岸



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帆掛島(男鹿半島最大級の一枚岩)




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潮瀬崎(真ん中にゴジラ岩がある)

 

潮瀬崎ジオサイト

潮瀬崎のゴジラ岩、双子岩帆掛島などの奇岩を眺めていると男鹿
半島の成立ち(火山活動)、日本列島が大陸から分離した創成期に
興味が湧いてくる。男鹿半島の地質については「ブラタモリ」の番
組で紹介されていたので記憶のある方もいるだろう。

帆掛島は、およそ3000万年前の火山噴火により出来た火山礫凝灰岩
だという。 また双子岩は、粗粒玄武岩でおよそ2000万年前に噴出し
たらしい。

男鹿のような岩礁の多い磯では、並の小舟では損傷が激しいので、
樹齢300年以上の秋田杉で丸木舟を造り、それを漁に使っていたと
いうから意外に思う。明治3年(1870)、その数 389隻というし、
昭和52年(1977)には約40隻使われていたようだ。 全て男鹿半島
産の杉でまかなったということにまた驚く。丸木舟の画像など詳し
いことは後ほど。



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荒々しい磯の景色が続く


沖には秀麗な姿の鳥海山がかすかに見える。途中の神社などでは
菅江真澄の道」
という記念碑をいくつも見かけた。


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海の彼方に鳥海山を望む



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小浜




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真澄は 小浜でも歌を詠んでいる


風あらき浦の小浜のなみまくらうちもねられす明む此の夜は


菅江真澄の功績と芭蕉
菅江真澄本草家であるが、国学の第一人者・賀茂真淵の孫弟子
でもあり、歌人でもあったのである。歌の良しあしは わたしには
分らないが、内田武志氏がいうには あまり上手ではなかったよう
だ。しかし歌人つながり、医師のツテなどで各地を行脚するには
歌人の肩書は結構役に立ったようで、何と五十年ちかくも漂泊の
旅に出て、一生を終えた人なのだ。この点では芭蕉も真澄には敵
わない。
真澄は俳諧師松尾芭蕉の名を知っていただろうに、何故か真澄の
文章には芭蕉の名を見いだせない(芭蕉は「おくのほそ道」の旅
を終えて俳諧を革新したという)。

菅江真澄の名は、『菅江真澄遊覧記』全五冊(残されていた資料
を 内田武志氏 などが本にまとめた)を後世に残してくれたお陰
で、「紀行作家」として名を残した。またその著作は大きな遺産
(中部・東北・蝦夷の風俗)として民俗学、考古学の資料として
役立っている。残念なことに その名と功績を知っているものは少
ない。



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寒風山を望む

 

男鹿の丸木舟を観る
さて昼食も摂らず、バスに乗り男鹿駅に戻った。次の秋田行き電車の
発車時刻までは小一時間あるので、予定していた男鹿の丸木舟を見学
しようと、展示してある男鹿市民文化会館の場所を駅員さんに尋ねた。

徒歩で15分くらいの所にあるが、丸木舟など知らないという。駅構内
にある観光案内所で訊いても、「そんなの知らない」という返事。
とにかく行ってみようと線路沿いの道を寒風山方角に向って歩く。10
分ほど歩いてもそれらしき建物は見えてこない。とある建物に入り、
道を訪ねると「まだまだ先だ」という。気温30℃を優に越える中、重
たいリュックを背負い、またまた走るはめになる。10分ほど走るとよ
うやく目指す建物に着いた(行かれる方はタクシー利用をすすめる)。

※駅構内には手荷物を預けるロッカーは無く、観光案内所で9時から
手荷物を預かってくれる(有料)。



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男鹿市民文化会館前



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男鹿の丸木舟



幸田露伴と丸木舟
なぜ男鹿の丸木舟に興味を持ったかといえば、幸田露伴が明治三十年

晩秋のころに男鹿半島を反時計回りに一周し、『遊行雑記』という記
事を「太陽」という本に寄せている。当時男鹿半島(記事では、
「雄鹿の嶋」と表記)の西南部には道らしき道もなく、馬や人夫を雇
い一周したが、途中で道に迷い、海岸線では氷雨、風、波に打たれ、
死ぬような思いをしたようだ。

その時の旅で、男鹿では明治になっても丸木舟を漁に使っているのを
見て、アイヌの丸木舟との違いを述べている。男鹿の漁師のいうこと
には、丸木舟は樹齢300年を越える秋田杉を材に用いていること、その
舟は耐用年数 200年は あること、わたしは その文章を読んで男鹿の丸
木舟を見てみたい、と思ったのである。



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昭和26年造られ、実際に使われていた

 

露伴『遊行雑記』 より、丸木舟の項 抜粋

“此の辺(戸賀)の浜の真砂地に引き上げある舟どもをふと見れば、
舟といふ舟は皆独木舟(まるきぶね)なり。 独木舟 は古のいわゆ
蝦夷が島人もこれを用うれば然(さ)の珍しとすべくもあらねど、
此地(ここ)のは「あいぬ」の用うるものとも、いささか その造り
ざまを異にすれば、そぞろに眼も留まり心も惹かる。

……ここのは全く一つの大なる杉の木を刳りて造り成したるものに
て、…「あいぬ」の舟よりもなお人の知恵といふものの加わり居ら
ぬ真の 独木舟 なりといふべきなり。…この舟の価は昔より米三石
(約450kg)と定まれるよし、いづれも皆この島山の杉をもて造
るなるが、かかる舟なればその寿命(いのち)もまた甚だ長く、
二百年以上のものにて今なお用ゐ居るも少なからずといふ。”

明治3年(1870)には、丸木舟の数 389隻、 昭和52年(1977)に
は約40隻使われていたという。丸木舟は昭和20年代以降造られて
おり、男鹿では、寒風山、真山神社など複数の場所で展示
されている。



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大人5人は乗船できる

 

青春18きっぷ」を使っての「おくのほそ道」の旅を振返る
さてさて「青春18きっぷ」を使っての「おくのほそ道をゆく」旅。
芭蕉の「おくのほそ道」からは話が大分それてしまったけれど、
それはもとより計画のうち。
旅はまだ八日目であるが、残金はといえば、当初の予定していた
十万円は使い果たし、財布にあるのは、予備として取っておいた
三万円だけである。 そして「青春18きっぷ」 は残り三枚ある
(松島からは使いようがなかった)。

調べてみたところ(遅いわ!)男鹿駅から日本海側をJRを使って
関西に戻るには、細切れの乗り換えがあまりにも多く、民間にな
っている路線まで幾つかあるのだ。これでは何日かかるか分らな
いし、ホテル代が心細い。
やはり にわか仕込みの鉄道マニアになった気分だったけれど、
ちと無茶が過ぎた。暇は会っても先立つものがない、体力が残っ
ていない、そして持病の腰痛が再発した(首を回すことさえ辛い)。

ホテル探しで感じたことをいえば、泊まる前日か当日にネットで
調べても見つからない場合は、現地に着き、見当をつけたホテル
に電話をすることだ。案外これで見つかったので(旅慣れた人の
話でも そう)、やってみるのもありかも。
ちなみに わたしのホテル代の予算は、ビジネスホテルで素泊まり
5千円から6千円の範囲。予算内に収まったのは一回だけで、他は
8千円から1万円だった(立派なホテルだった)。

食事はといえば、夕食はコンビニで購入 (併せて朝食用のパン)
したおにぎりと缶ビール、昼食は ほとんど抜き(朝食用のパンが
残っていればそれを食べた)だった。
下着類の洗濯は、毎晩ホテル設置の洗濯機と乾燥機を使用した。
これは大分助かった。

「行き当たりばったりの旅」だったけれど、年寄には体力面でも
経済面でも相当にキツカッタ。若いころ(五十年前)の寝袋持参
の旅とは、国内の様子が大分違っていた。まだまだ見て回りたい
ところは沢山あるのだけれど、残念ながら それはまた いつかの
機会にまわそう。

なので 「おくのほそ道をゆく」旅 (第一部!)を そろそろ終了
とする。第二部は近日中に公開予定ということで。
秋田新幹線東海道新幹線を使っての帰宅はあっという間(とは
いえ7時間かかった)だった。
そして家に着いた時、財布の中身は空に ちかかった。

総括
1. 「行き当たりばったりの旅」 は、年寄には 二三日が限度と
   心得るべし!
2. 旅の予算は十分に用意すべし!
3. できる限り事前に観光情報を得、ホテルなどは予約すべし!
4. 三食をしっかり摂り、土地の名物は味わってみるべし!

撮影年月:2019年7月

 

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