本阿弥光悦ゆかりの地 — 屋敷跡、楽焼宗家、千家、尾形光琳・乾山墓所などを訪ねてみた

 
光悦ゆかりの地めぐる を理由に健康管理?
光悦とは縁もゆかりもない わたしが、どういう気まぐれからか、光悦に関係する所を巡ってみよう、と思い立ったのは実にコロナ禍のせいなのである。

とある秋の日、新型コロナ感染を理由に家の中に閉じこもってばかりでは精神にも体にも良くないと思い、たまには 遠く都の北の果て 鷹峯(たかがみね)あたりまで歩いて行ってみようと考えた。歩く距離を地図で調べてみたら片道10km未満だった。歩けないこともない距離である。ただ歩くだけでは詰まらないので、このあいだ本阿弥光悦の屋敷跡というのを見つけていたので、そこを起点にして「光悦ゆかりの地」というものをつくってみよう、と思い立ったのである(観光案内にもなるしね)。光悦が晩年に住んでいた光悦寺は、今が紅葉の盛りかもしれないので張り切ってゆくとしよう。

で、調べもし 思いつくままにあちこち歩いてみると、「ゆかりの地」が出てくること出てくること、こじつけがましいこと甚だしいのは恐縮だが、写真に撮ってみると1000枚ほどになってしまった。だいぶ削除したが、それでも掲載する写真は100枚に迫るかもしれない。少々 重たいのでニ三回に分けることにした。ついでに能書きをタレルので、それが気に入らない方は、写真だけでも見ていただけたら嬉しいので、その点よろしくお願いするとしよう。



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光悦屋敷跡(上京区今出川油小路上がる)

本阿弥家は代々刀剣の鑑定と刀研ぎの仕事に従事していた。光悦が晩年に住んでいた鷹峯は、徳川家康から元和元年(1615)に拝領したところで、 本阿弥一族および友人、職人らとともに移り住み、そこでは光悦を中心として創作活動が展開され、鷹峯「芸術村」と言われるようになった。光悦自身も書、絵画、工芸、陶芸などの創作を行っていたようだ。

 

 

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油小路通り(右端が屋敷跡)

光悦の屋敷跡は、今の京都市上京区にあったと伝わっている。蹴鞠で有名な白峯神宮の東隣にあり、今はその場所にマンションが建っている。以前、某テレビ局の番組で中立売通りの場所が紹介されていたので、そちらにも行ってみたが確証が得られないので写真はボツにした。

 

 

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白峯神宮

プロのサッカー選手などが勝利を願って訪れることで知られている。有名選手のサイン入りサッカーボールや michael とサインが入ったバスケットボールが境内にいくつも転がっていたことにビックリ(マイケルだけにジョーダンです^^)。

 

 

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楽焼家元 楽吉左衛門

 
知らぬ者のいない楽焼家元「 楽吉左衛門 」の屋敷である。初代は長次郎といって帰化人の血をひく瓦職人(飾り瓦の工人)とも伝えられている。長次郎は千利休の知遇を得て利休好みの茶わんを造っていたようだ。

二代常慶・三代道入(のんこう)と光悦は結構付合いがあったようで、光悦が常慶に宛てた手紙によると「白土・赤土を急いで(鷹峯まで)もってきてほしい」と依頼している。光悦は鷹峯に窯は持っていたようだが、楽家でも焼いてもらっていたようである。

楽美術館には何回か入ったことがあり、三代目までの茶わんは「持って帰りたい」衝動に駆られたことがある^^;
※南隣には楽美術館が併設されており、年に何回か公開されている。

 

 

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楽美術館

 

 

 

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官休庵武者小路千家

 

 

 

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三千家の一つである。ところは武者小路通りに面しており、楽家のすぐ北に位置している。

 

 

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狩野元信邸跡

武者小路千家のすぐ北にある。狩野派の租・狩野正信の子で、孫には永徳がいる。前を通ったので ついでに載せてみた。次は尾形光琳・乾山の墓に参ろうぞ。 

 

 

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上京民家

 西陣織に関係する家だろうか。こういう造りの家が上京区にはまだまだ残されている。

 

 

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豪壮な造りの家(ベンガラ格子が目に眩しい)

 

 

 

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泉妙院

この寺には尾形光琳・乾山とその一族の墓がある。珍らしく門が半分開いていたので遠目に墓を写真撮影。光琳・乾山の曽祖父・道柏の妻 法秀は光悦の姉である。寺には光琳の作品、文献などが保存され、位牌も祀られている。
※通常非公開

 

 

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尾形家の墓

門から撮影したが、広角レンズではこれが限界。酒井抱一が墓を建立したという墓標が写真の真ん中に建っている。次は お隣の千家に向う。

 

 

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小川通り

小川通り沿いには表千家裏千家家元、それに茶の湯の道具を扱う店が建ち並ぶ。

 

 

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表千家 表門

 紀州家から拝領した武家風の門という。どうりで いかついわけだ。

千利休辞世の和歌
ところで 千利休は何故切腹しなければならなかったのだろうか。豊臣秀吉の怒りをかったことは間違いないとして、そこに至った原因がもう一つ判然としない。そのことは後ほど究明するとして、表千家不審庵には利休辞世の偈と和歌が残されているという。

    提ル我得具足の   ひっさぐるわがえぐそくの

    一太刀今此時そ   ひとつたちいまこのときそ

    天に抛       てんになげうつ

    天正十九仲春
    廿五日 利休宗易居士
           (花押)

 

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裏千家 今日庵

 

 

 

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裏千家今日庵 兜門


利休の語


千の利休が語に、客亭主たがひの心にかなふはよし協ひたがるはあしし、又寂びたるはよし寂びさせたるはあし、風流ならざるところ却て風流、求めて風流なるは風流ならざるなりとあるは、流石に一道の宗匠ほどありて面白き言といふべし。

幸田露伴『折々草』より一部引用

 

 

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小川通り

小川通りを北から撮影する。突当りの白壁の家は、TVドラマ「京都人の密かな楽しみ」に出ていた“俵屋吉富”。茶と和菓子がいただける店も併設されている。あのドラマに出ていた和服の常盤貴子のファンになってしまったのだ。

 

疲れたので 今日はここまで。明日に続きます。

 

 

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