はじめに
今回は『カサノヴァ回想録』からの引用が多くなってしまった。わたしの拙い解説より、カサノヴァ本人の文章のほうがずっと面白いからそれは致し方ないこと。是非ともこの本を図書館か古書店で手に入れて読んでいただきたい(古書店では数千円で購入できるのでありがたい。岩波文庫でもあるけれど翻訳者の事情で未完に終わっているので河出書房・新社のブロックハウス版がおすすめ)。
今日紹介するところは、カサノヴァの九歳から十六歳にわたる成長の記録であり、彼の人生に多大な影響をおよぼした学校の先生(ゴッチ博士)やその妹のベッチーナとの交流、そして当時行われていた悪魔はらいのことが書かれているので、とても興味深い章である。
とりわけ、天然痘にかかった人間の症状の推移が詳しく記述されていることは、他の文学作品には見られないので貴重な資料ともいえる。
カサノヴァの悲惨な下宿生活
カサノヴァはパドヴァに着き、サンミケーレ教区内、サンタ・マリア・ダヴィンチェ街にある、スラヴォニア生まれの老婦人の家の屋根裏部屋に下宿することになる。
“ スラヴォニア生まれの老婦人 は、まずわたしを屋根裏に連れていき、わたしのベッドを教えてくれた。わたしのベッドの横には、他にまだ四つのベッドが並んでいた。それらのうちの三つは、ちょうどそのときは学校にいっていたわたしと同じ年頃の子供たちのものであり、四番目のベッドは、われわれに神への祈りをさせ、小学生たちがやりがちな悪戯をさせぬように監督する小間使いのものだった。
正午ちかくに、三人の仲間が帰ってきた。かれらは昔からの知り合いでもあるかのようにいろんなことを話してくれた。かれらは、わたしがもう何でも知っていると思っていたに違いない。わたしは何も返事をしなかった。しかし、かれらはそんなことで狼狽したりはしなかった。そしてとうとう、わたしをかれらの無邪気な遊びに引きずりこんでしまった。それは、することといったら、走ったり、肩車をしあったり、とんぼ返りをしたりすることだけだった。わたしは夕食に呼び戻されるときまで、かなり大喜びで、こうしたすべての遊びに仲間入りしていた。
わたしも他の連中と同じように、まず皿のスープを飲みこんだ。仲間たちの飲み方の速さに不平はいわないけれども、そんなに早く飲むことが許されていることには、大変驚かされた。じつにまずいスープのあとで、乾鱈の小さなひときれがでた。それからリンゴが一個。食事はこれで終わりだった。
そのときは、ちょうど四旬節だったのである。われわれには、コップも湯呑みもなく、グラスピアという汚らしい飲み物を、陶製の水差しでまわしのみをした。この飲物は、実をぬきとってしまった葡萄の房を、水で煮詰めたものである。次の日から、わたしはもう生水しかのまなかった。ここの食事は、何しろわたしをびっくりさせた。
食後、小間使いはわたしを学校に連れていってくれた。それはゴッチ博士という若い司祭のところで、 スラヴォニア の老婦人はこの司祭に、月に四十スー、すなわち一ゼッキーの十一分の一を払うことで話をつけていたのだった。
書き方から教えるということで、わたしは五、六歳の子供たちのなかに入れられた。この子供たちは、まずわたしを小馬鹿にした。
夕食は、案のじょう、昼食よりもひどいものだった。だが、それに不平をいうことも許されていないので、わたしはあきれてしまった。それから、わたしはベッドに寝かされたが、そこには世に有名な三種類の虫がいて、眼をとじることができなかった。虫以外にも、鼠が屋根裏中をかけめぐり、ベッドの上を飛びまわったりするので、わたしはぞっとするほど恐ろしかった。
夜が白々と明けはじめてくると、すぐにわたしはこの南京虫どもの巣窟から飛び起きた。そして小間使いの小娘に、耐え忍んできたあらゆる苦しみの不平をちょっと訴え、下着を要求した。南京虫のしみは、わたしが身につけていた下着をみるも恐ろしいものにしていたのである。しかしかの女は、下着は日曜ごとに替えることになっているのだと答え、わたしが女主人にいいつけてやるとおどかすと、げらげらと笑いだした。
わたしは友人どもの愚弄する言葉をきいて、悲しさと腹立たしさから、生れて初めて涙を流した。かれらも、かつてはわたしと同じような目にあったのだ。しかし、かれらはもうそんなことに慣れてしまっていた。
悲しみに打ちひしがれたわたしは、午前中を学校で眠ってすごした。学友のひとりが博士にそのわけを話したが、それはわたしをもの笑いにするためだった。
…司祭は、わたしをかれの部屋に連れていった。そしてわたしから話をきき、いっさいのことを自分自身の眼で確かめると、わたしのあどけない皮膚をおおいつくしている水疱をみてびっくりし、大急ぎで自分のマントでわたしを包んで下宿屋に連れ帰ってくれた。
そうして、強欲婆さんに、わたしがどんなになっているかをみせた。婆さんは驚いた様子をして、その罪を小間使いのせいにした。…博士は、わたしを他の生徒と同じように清潔にしなければ、学校では引受け内ないと婆さんに言い残していった。
学校の先生(ゴッチ博士)はわたしの教育に特に目をかけてくれた。かれはわたしを、自分のテーブルのそばに坐らせた。わたしはこの特別待遇に感じ入っていることを示すために、一生懸命になって学業に精出した。それで一か月後には、非常に書き方も上手になり、文法クラスに入れられた。…四、五カ月あまりのうちに、わたしは非常に進歩したので、博士はわたしを級長にしてくれた。
博士は、ある日自分の部屋にわたしを呼んで、差し向いに座らせた。そして、何だったらスラヴォニアの老婦人の下宿を出て、自分のところにこられるように手続きをとってもいいが、その気が本当にあるのかと尋ねた。わたしがこの提案に大喜びをすると、かれは三通の手紙をわたしに写させた。”
そして一週間が経つとカサノヴァの祖母がヴェネチアから駆け付け、ゴッチ博士と話しをし、一年間の下宿代二十四ゼッキーを前払いではらい、領収書を受取った。祖母はカサノヴァのための僧服をあつらえ、かつらをつくってくれた。
“ ゴッチ博士にはまた、ベッチーナという十三歳の妹があった。かの女は愛らしく、陽気で、大変に小説好きであった。…この娘はなぜかわからないが、まずわたしの気にいった。それから少しづつ、かの女はわたしの心に情熱の最初の火花を投げこんでいったが、やがてその情熱は、わたしを支配するほどのものとなった。
…(二年をかけて) かれ(ゴッチ博士)は自分の知っているいっさいのことをわたしに教えてくれたが、実のことをいうと、それはごく僅かなことでしかなかった。とはいえ、それはあらゆる学問への入門課程として十分なものだった。かれはまた、わたしにヴァイオリンを教えてくれた… ”
ベッチーナ天然痘にかかる。その症状とカサノヴァの献身的な看病
“ 翌日、医者のオリヴォは、かの女( ベッチーナ )の高熱をみてとってから、博士( ベッチーナ の兄)に向って、この熱では恐らくうわ言をいったりするだろが、それはあくまでも熱のためであって、悪魔のせいではないといった。実際、ベッチーナは一日中、うわ言をいいつづけていた。…三日目に熱は一段と高くなり、皮膚にできた斑点は、疱瘡(天然痘)の疑いが濃かったが、四日目にははっきりと現れてきた。
そこでまず、(同居している)カンディアーニとフェルトリーニ兄弟は、まだこの病気にかかったことがなかったので、すぐに隔離された。しかし、わたしは(カサノヴァ)もう免疫だったので、ひとり残った。
哀れなベッチーナは、ペストのような発疹におおわれて、六日目には、からだのどの部分にもその肌をみることができないほどになってしまった。二つの眼もふさがってしまった。髪もすっかり切らねばならなかった。口も咽喉もすっかり発疹におおわれ、蜜しか食道に流しこめないことが分ったときには、人々はかの女の命はないものと思った。もうかの女には、呼吸以外の動きは何もなかった。
…哀れな娘は恐ろしい形相をしていた。頭は三分の一ほどふくれ上がり、鼻などはもう認められなかった。かりに命が助かったにしても、人々は眼がどうなるのかと心配した。わたしが最も迷惑し、それに耐えようと努力したことは、かの女の発汗するくさい匂いだった。
九日目に、主任司祭が罪障消滅の宣言と聖油を授けにやってきて、かの女を神の御手にお渡ししたいといった。…
十日がすぎ、十一日目がくると、人々はたえずかの女の最後を心配しだした。吹出物は、どれも黒くなって化膿し、あたりを悪臭芬々とさせた。誰ひとりそれに耐えられなかった。だが、わたしだけは、この哀れな人間の病状に心を痛めて、耐え忍んでいた。
十三日目にもう熱がなくなると、かの女は我慢できない痒さのためにのたうちまわり始めた。そのときには、たえずわたしが繰り返し言ってやった。次のような力強い言葉ほど、それを静めてやる薬は何ひとつなかったに違いない。
「ベッチーナ、いまはもう、なおりだしているってことを忘れちゃいけないよ。むりにかきむしったりしたら、もう誰にも愛されないほど醜くなってしまうんだよ」
かつてはどんなに美しさを誇っても、かきむしったりしたが最後、身から出たさびと自らの醜さをさらさねばならない娘に対して、この言葉以上に強力な痒み止めがあるかどうか、嘘だとおもったら世界のあらゆる医者たちに腕くらべよろしく尋ねてみるがいい。
ついにかの女は、ふたたびその美しい眼を開いた。かの女はベッドを替えられ、自分の部屋に移された。しかし、首にできた膿瘍のために、復活祭まで床についていなければならなかった。わたしも八つか十の疱瘡を感染させられ、そのうちの三つは、今も顔から消えずに跡をのこしている。しかし、それはベッチーナに対し、わたしの名を大いに高めた。それでかの女のほうも、自分の愛を受ける資格のある男はわたしのみ、ということを認めるようになった。かの女の皮膚は、すっかり赤い斑点でおおわれ、それが消えるまでにはたっぷり一年かかった。
こうしてかの女は、以後、いかなる虚偽の気持ちもなくわたしを愛し、わたしもまたかの女を愛した。とはいえ、わたしは、世の偏見の力をかりた運命が、結婚の日のためのものと取りきめた一輪の花を、決してつみ取りはしなかった。だが、それは何と憐れな結婚の日のための花であったことか!
二年後に、ベッチーナはピゴツォという靴屋と結婚したが、この破廉恥なごろつきは、かの女を貧しく不幸な暮らしに追いこんでしまったので、とうとう兄の博士が面倒をみなければならなくなってしまった。
十五年後にパドヴァの聖ジョルジォ・デラ・ヴァレ教会の首席司祭に選ばれたこの博士は、その地にかの女を連れていった。そして、今から十八年前に、かれをその土地に訪れたとき、わたしはそこで、年老い、病み、死にかけているベッチーナとあった。かの女は1776年にわたしの眼の前で息を引きとったが、それは、わたしがかの女の家についてから二十四時間後のことだった。かの女の死については、いずれしかるべき場所で話そう。”
天然痘看病の勲章?
カサノヴァの初恋の女は四歳年上のベッチーナだった。このずる賢い娘はカサノヴァという少年の官能をかきたてるばかりで、けして情熱を満足させてはくれなかった。ベッチーナの手練手管にしてやられるばかりであったのだ。
カサノヴァがベッチーナから与えられたものは、天然痘の看病をしていてもらった、三つの疱瘡の跡(それは生涯消えることがなかった)だけである。
天然痘の予防と治療
大分長いながい引用が続いたので読者は辟易したことだろう。ここだけは簡単な解説で済ますわけにはいかなかったので、ご勘弁願うとしよう。
さてベッチーナは天然痘に感染したが回復した。いったいどのような治療をうけたのだろうか、本文には書かれていないのでそれは分からない、が当時も今も天然痘に感染したが最後、これといった治療法はないようだ。対症療法( 重症例に対して鎮痛剤、水分補給、栄養補給、気道確保、皮膚の衛生保持など) しかないようである。
英国の開業医Edward Jenner が天然痘の予防法として種痘(vaccine)を発明したのは、1796 年のことであるから、ベッチーナが罹病した当時は予防法すらなかったのである。もし天然痘に感染すれば、致死率は30%以上あるのだとか。
日本での種痘の普及に貢献した緒方洪庵
日本での種痘の普及にあたって最大の貢献をしたのは緒方洪庵 で、その様子は確か『福翁自伝』や手塚治虫の漫画『陽だまりの樹』で描かれていたように思う。両著とも手元にないので詳しい事はここでは書かない。なお、『陽だまりの樹』に出ていた手塚良庵とは、手塚治虫の曽祖父で福沢諭吉とは ほぼ同時代に緒方洪庵の弟子であった。上に紹介した両著ともとても面白い本なので、これも読むことをおすすめしたい。
天然痘(痘そう)とは ( 国立感染症研究所感染症情報センター ) ― 参考資料として
“ 天然痘は紀元前より、伝染力が非常に強く死に至る疫病 として人々から恐れられていた。また、治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕が残るため、江戸時代には「美目定めの病」と言われ、忌み嫌われていたとの記録があ る。天然痘ワクチンの接種、すなわち種痘の普及によりその発生数は減少し、WHO は1980年5月天然痘の世界根絶宣言を行った。以降これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。
疫 学
天然痘の感染力、罹患率、致命率の高さは古くからよく知られていた。1663年米国では、人口およそ4万人のインディアン部落で流行があり、数百人の生 存者を残したのみであったこと、1770年のインドの流行では300万人が死亡したなどの記録がある。Jenner による種痘が発表された当時(1796 年)、英国では45,000 人が天然痘のために死亡していたといわれる。
我が国では明治年間に、2〜7 万人程度の患者数の流行(死亡者数5,000〜2万人)が6回発生している。第二次大戦後の1946(昭和21)年には18,000人程の患者数の流行が みられ、約3,000人が死亡しているが、緊急接種などが行われて沈静化し、1956 (昭和31)年以降には国内での発生はみられていない。
1958 年世界天然痘根絶計画が世界保健機構(WHO)総会で可決された。当時世界33 カ国に天然痘は常在し、発生数は約2,000 万人、死亡数は400万人と推計されていた。ワクチンの品質管理、接種量の確保、資金調達などが行われ、常在国での100%接種が当初の戦略として取られ た。
しかし、接種率のみを上げても発生数は思うように減少しなかったため、「患者を見つけ出し、患者周辺に種痘を行う」という、サーベイランスと封じ込め (surveillance and containment)に作戦が変更された。その効果は著しく、1977年ソマリアにおける患者発生を最後に地球上から天然痘は消え去り、その後2年間 の監視期間を経て、1980 年5月WHO は天然痘の世界根絶宣言を行った。
その後も現在までに患者の発生はなく、天然痘ウイルスはアメリカとロシアのバイオセイフティーレベル(BSL)4の施設 で厳重に保管されている。
病原体
天然痘ウイルス(Poxvirus variolae)は200 〜300nm のエンベロープを有するDNA ウイルスで、牛痘ウイルス、ワクシニアウイルス、エクトロメリアウイルスなどとともに、オルソポックスウイルスに分類される。低温、乾燥に強く、エーテル 耐性であるが、アルコール、ホルマリン、紫外線で容易に不活化される。
臨床的には天然痘は致命率が高い(20〜50%)variola major と、致命率が低い(1%以下)variola minor に分けられるが、増殖温度を除きウイルス学的性状は区別できない。
臨床症状(図1)
感染は飛沫感染による。およそ12 日間(7〜16 日)の潜伏期間を経て、急激に発熱する。臨床症状は以下のようなステージに分けられる。