『カサノヴァ回想録』に見る女性遍歴と少年期のペテン師の片鱗



はじめに
いったいカサノヴァとはどんな人間だったのだろう。そしてまた彼の『回想録』とは何だったのだろうか。『回想録』に書かれていることは、多少は美化して書いていることもあるだろう、と考えるのだけれど、後世のカサノヴァ研究者によると、そのほとんどが真実なのだという。

カサノヴァが関係をもった女性は百人を越えるというし、百十六人だという研究者もいる。いったいどうやって調べたのだろうか。ヒマですね、としか言いようがない^^;
四十年間にわたって女性遍歴をしたこの独身男の一年間の恋人は、平均三人たらず、だという。なにせ結婚したら束縛されるというので一生独身(?)を通した。女性と別れるにも、後味の悪い別れ方はしていないというのだから、その手練手管を教えて欲しいものである。




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カサノヴァ的天才とは?
“ カザノヴァの天才を示すのは、彼が自分の生涯をどのように書き伝えたか、ではなくて、彼がいかに自分の生活を生きたか、という点だからである。ほかの人だったら創作しなければいけないことを、彼は楽々と呼吸しながら感じとってしまう。他人が精神で形成するものを、彼は欲望に燃える肉体でつくりあげる。

たとえばゲーテジャン・ジャック・ルソー、その他同時代人の伝記と、彼の伝記(回想録)とを比較してみるがよい。これらの人たちの生涯は、目的追及の創造的意志に支配されているが、このペテン師の流動的で、自然そのものの生涯にくらべると、何と変化に乏しく、空間がせまくるしく、つきあう範囲が田舎くさく見えることであろう。

彼が創作の点で素人だとすると、上述の人たちはみんな、享楽にかんしては、素人だといえる。実はこの点が精神的人間の永遠の悲劇である。つまり、ほかならぬ精神的人間こそ、生活のあらゆるひろがりと快楽を知りつくす使命と願いをもちながらも、自分の使命にしばられてしまうからだ。

行動人で享楽者だったら、あらゆる詩人以上に体験を語れるはずなのに、その能力をもっていない。また、創作者となると、もの語るに足るだけの出来事を体験していることがまれなので、詩的創造をしないわけにはいかなくなるのだ。

カザノヴァこそは、すばらしい、ほとんど唯一の成功例と見なされるのだ。情熱的享楽者が、ついに自分の波乱万丈の生涯について語ったからだ。
この男は、その生涯をとりつくろいもせず、詩的に美化もせず、哲学的に粉飾もしないで、きわめて客観的に、まったくありのままに語っている。いいかえればその生涯は、情熱的で、危険で、堕落しており、でたらめだが、興味津々たるものがあり、卑劣で、いかがわしく、あつかましくて、ふしだらではあるが、しかしいつも、意想外のことが連続して、手に汗を握らせるのだ。”

ツヴァイク『カザノヴァ』より引用。吉田正美




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 カサノヴァ、医師を志すも意に反し法律を学ぶ
“ その後、わたしはさらに一年をパドヴァで過ごし、法律を勉強した。そして十六歳で博士となったが、論文は、民法では「遺言書について」、教会法では「もし、ヘブライ人が新たな教会堂を建てうるとすれば」というものだった。

わたしは職業として、医学を学び、開業したいと思っていた。わたしはこの仕事を非常に愛していたからだった。しかし、わたしの考えはきき入れられなかった。人々はわたしが法律の研究にはげむことを望んでいた。だが、わたしは法律が死ぬほど嫌いだった。

みんなは、弁護士になる以外に出世する道はないと主張した。しかも一段といやなことには、わたしには弁才があるのだから、教会弁護士になれというのだった。もし、みんながよく考えてくれたならば、わたしが医者になることを喜んでくれたに違いない。医者になっていれば、わたしは自分の山師気質を、弁護士になるよりいっそう役立たせていたことだろう。

わたしは弁護士にも医者にもならなかったが、所詮はそうなるより仕方がなかったのである。わたしは弁護士席で、法律上の権利を主張しなければならない時にも、決して弁護士を頼もうとしなかったし、また、病気になったときにも絶対に医者を呼ぼうとしなかったが、次のようなところにその理由があったのかも知れない。

訴訟沙汰は、家庭を守るというよりは、はるかに数多くの家庭を破壊し、医者の手で殺される人間の数は、かれらになおしてもらう人間よりもずっと多い。このことは、医者とか弁護士といった輩がいなければ、この世ははるかに不幸が少なくなるということにほかならない。”


カサノヴァ、大学生活で悪事を学ぶ!
カサノヴァは「ボオ」と呼ばれている大学に通い、
“ すぐに悪名高い学生たちの仲間入りをして、できる限りの悪いつき合いをすることとなった。ところで、その方面で名だたる連中とは、札つきの放蕩者、賭博屋、悪所通いの常連、大酒飲みで女好き、良家の子女の死刑執行人、乱暴で嘘つき、ほんの僅かな徳義心を養うこともできない輩たちだった。このような連中とのつき合いによって、わたしは、経験という誇らかな書物で研鑽をかさねつつ世間を知り始めたのだった。”

彼等は、
“ わたしの姿を認めると、その道の常習犯どもは、わたしをつかまえ、そして、わたしの腹にさぐりを入れた。わたしが万事に未経験なことを認めると、かれらは、わたしをすっかりだましこみ、教育しようとくわだてた。そして、まずわたしに賭博を教え、わたしがもっていた僅かな金を奪いとってしまい、今度は口約束の勝負をさせ、その代金支払いのために悪事をはたらくことを教えてくれた。

しかし、そのときに、わたしは同時に、苦悩とはどのようなものであるかを初めて知った。また、面と向かって人をほめるような鉄面皮は信用しないこと、人にお世辞をいう人間の申し出などは何ひとつあてにならぬということを学んだ。また、求めて喧嘩をしたがる連中と暮らすことも覚えてしまった。こうした連中の社会は避けねばならない。そうでないと、いつも断崖にさらされていなければならないようなことになる。

こうした新しい暮らしで、わたしは、新規の友人たちより金がないと思われたくないばかりに、自分で負いきれないような無駄使いを平気でした。わたしは自分の持っているいっさいのものを売りはらい、質に入れた。そして、支払い不能の借金をつくってしまった。それはわたしの最初の、そして一介の青年が経験し得る最もつらい苦しみであった。

わたしは親切な祖母に手紙を書き、救いをもとめた。しかし、金を送る代わりに、かの女は自らパドヴァにやってきた。かの女はゴッチ博士とベッチーナに礼をいい、1739年の10月1日に、わたしをヴェネチアに連れて帰った。”

 


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1939年にパドヴァから 一旦 ヴェネチアに 戻ったカサノヴァは、ヴェネチアのサン・サムエーレの主任司祭トゼルロに教会の席を設けてもらい、神父はまた、ヴェネチアの総大司教コルレル猊下をも紹介してくれた。この大司教はカサノヴァの剃髪をしてくれ、四カ月後には特別の恩典で四つの下級聖職を授けられた。カサノヴァには、いよいよ説教家の道が開けるかに見えたのだが。

貴族の贅沢病?
トゼルロ神父の紹介でカサノヴァは、元老議員のマリピエロ氏には何かと眼をかけてもらえた。氏は享楽的な貴族だった。
“ このマリピエロ氏は七十歳の元老議員で、もう国政に関係する気はなく、宏壮な邸宅で幸せな生活を送り、食欲も旺盛だった。そして、毎晩、えりぬきの人たちによる社交界を開いたが、それは、いずれも放蕩生活を送ってきた婦人たちと、市中に起こった新事件のことは何もかも知っている才人たちの集まりだった。

この年老いた貴族は独身で金持ちだった。しかし、かれは不幸にも、年に三、四回、ひどい痛風の発作がおこり、或る時は片方の手足が動かなくなり、また或る時には、今一方の手足が不随となり、結局、全身がどうにもいうことをきかなくなるのだった。この酷い発作をまぬかれているのは、ただ頭と肺と胃だけであった。

かれは美しく、美食家で、食通だった。才気に富み、世間を知りぬき、ヴェネチア指折りの雄弁家だった。しかし、国政参与の四十年ののちにやっと身をひいたこの明敏極まりない元老議員も、二十人の女をかこったのちに、もはやいかなる女にも気に入られぬということをしぶしぶ自覚せざるを得なくなってから、やっと美女たちを追いまわすのをやめる始末であった ”


七十歳のマリピエロ氏、十七歳のイメールに惚れる

マリピエロ氏は一日に一回の食事をただ一人で摂っていた。何故なら歯のない彼は、歯茎でかみ砕いて食べなければならなかったので、他の人の倍の時間がかかったからである。そのことにカサノヴァは、こう進言した。「他人の倍食べる人物を招けばよい」のだと。その言に参ったマリピエロ氏は、明日から毎日食事に来るようにといった。十五歳のカサノヴァにとっては幸運だった。

年齢と痛風のことも省みず、マリピエロ氏は相変わらずの女好きであった。年齢を経たからと言って、枯れたように見えても男は死ぬまで女好きなのだ(?)。氏は隣の家に住んでいた、イメールという十七歳の美しい娘に惚れていたのである。娘は母親とともに毎日のように屋敷にやってきた。

ある日カサノヴァはマリピエロ氏に娘との結婚をすすめてみた。
“ しかし、わたしは、かの女が妻となりたがっていないというかれの返事をきいて、唖然としてしまった。
「それはまたどうしてです?」
「かの女は家族の憎しみを受けたがっていないからさ」
「それなら、お金でも沢山あたえてやるなり、さもなければ、何かいい身分にしてやったらいかがです」
「かの女は、この世の女王になるために大罪を犯すようなことはしたくないと言っているんじゃ」
「だったら、姦してしまうのです。でなければ、閣下の家から追っ払うか、追放するかです」
「そのどちらもする気になれんな」
「じゃ、殺しておしまいなさい」
「そうなるかも知れんが、それもわしのほうが早く死ななければの話さ」
「閣下はほんとにお気の毒です」
「お前はあの子の家には絶対にいかないのかね?」
「はい、参りません。行けば惚れてしまうかも知れません。かの女とここでのようにさし向かいになれば不幸になるにきまっていますから」
「賢明じゃな」”


こうした問答を交わしたカサノヴァはマリピエロ氏のお気に入りとなり、彼の家の盛りをすぎた婦人たちと才人たちによって構成されている夜の集まりに出席することを許された。

十五歳という年齢にしては、カサノヴァの言うことは大胆で堂に入っている。ハッタリともとれる言動、「ペテン師」の片鱗がすでに見えていることに舌を巻く。マリピエロ氏は、カサノヴァに次のような大事な訓戒をたれた。

・集まりでは、質問されたこと以外には決して口をきいてはいけない。十五歳という歳ではいかなることについても自分の意見を絶対に言ってはいけない(これは命令ともとれる)と。マリピエロ氏は、「思慮ある慎みの教えを巧みにさずけ」た。


その結果、マリピエロ氏の家を訪れるすべての婦人たちから、彼の子供のように扱われ、色いろな「ご利益」にあずかったのである。
なるほどそういうこともあるんだ、と貴族社会(上流社会)とは縁のないわたしは思う。いまさらこの歳で教訓を得ても遅いけどね。

※続きます