かつて小野郷と呼ばれた洛北 上高野の神社をめぐる ー 小野妹子と出雲氏の関係をさぐる

 

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崇道神社一ノ鳥居

京都市の北部、高野というところに小野妹子や小野一族を祀った神社があると聞いていたので一度は訪ねてみたいと機会をうかがっていた。小野妹子は遣隋使として初めて隋に渡った人と知っていたし、子孫には小野篁小野小町がいるので なんだか親しみやすさを感じていたのだ(わたしは子孫ではないのだけれどね)。

 

 

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一ノ鳥居の傍らにある石碑

小野毛人は妹子の子と言われている。その方の墓が崇道神社の裏手の山で発見され、鋳銅製の墓誌が出てきたと伝わっている。墓が発見されたのは江戸時代(1613)で当時の有名な学者たち(名前を知っているのは伊藤仁斎の子・伊藤東涯だけーその方の子孫と わが子が同級生だった?)が考証したのだとか。後に国宝になった墓誌京都国立博物館で保管されている。

 

 

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二ノ鳥居

 

 

 

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崇道神社拝殿


崇道神社は皆さんよくご存じの蓮華寺の東隣に鎮座しておられるのだが、ここへお参りする方は近所の方ばかりのような気がした。どなたを祀っているかと言えば、桓武天皇の弟 崇道天皇が祀られている。いつの頃から崇道天皇が祀られているのかよう分かりません。

延喜式神名長』(927)では、愛宕(おたぎ)郡二十一座 大八座 小十三座と記され、小野神社、出雲高野神社、伊多太神社が比定社とされていて、表記の三座がこの地(境内)に祀られている。


 

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摂社 小野神社(式内社

小野一族を祀る。祭神は小野妹子小野毛人(えみし)。1971年に社殿が再建された。式内社の割には思いのほか小ぶりな社である。



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時代がかった石仏群

 

 

 

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小野毛人墓入口

石碑左手の山道を登ると十分ほどで墓に至る。

 

 

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崩れやすい山道を登る

 

 

 

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小野毛人

折しもヤブツバキの赤い花が墓の上に散っていた。

 

 

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奈良時代前期の墓

石室の大きさは人が入る程度の大きさ(長さ2.5m、幅1m、高さ1m)だったようだ。

 

 

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内藤湖南碑文(読めません)

 

内藤湖南と狩野亨吉
内藤湖南秋田県出身の東洋史学者。同県出身の京都帝大文学部文科大学長・狩野亨吉の招聘により同大学に迎えられる。同僚には幸田露伴がいた(同じころ漱石も来るはずだったが気が変ったようだ)。

湖南は幼い頃から狩野亨吉同様に神童と言われていたようだ。ちなみに狩野亨吉の名はあまり知られていないが、知る人ぞ知る安藤昌益の『自然真営道』を発掘した人として知られる。相当変った人で一冊も著作を残さなかった(本人の意思)そうだ。狩野亨吉も内藤湖南も筋金入りの「本の虫」で、その上美術工芸品に造詣が深かった。

 

 

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上高野を見下ろす

背後に山頂へ続く道はあるが、遺蹟らしいものは見当たらなかった。険しい道なので登ることは お勧めできない。

 

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上高野を望む(中央に見える小高い山は吉田山)

遠くに見える ひと際高いビルは京セラ本社のようだ。その右手には京都タワー、そのまた奥には石清水八幡宮の鎮座する山のようだ。

 

 

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小野毛人墓誌

小野毛人は妹子の子とも孫とも言われているが どっちなの?



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崇道神社全景

写真下部右端の小さな社が出雲高野神社。

 

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天照大神豊受大神を祀る(手前)、式内社・出雲高野神社(奥)

出雲高野神社の本来の所在地についてはよく分らないようで、1915年にこの境内に再建されたのだとか。祭神は玉依姫命を祀っているようだ。崇道神社は、もとは出雲高野神社だったという説もある…よう分からんけど。

 

 

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摂社 伊多太神社(式内社


境内の西に摂社 伊多太(いただ)神社が祀られている。祭神は伊多太大神でその名は豊作祈願の神事「湯立儀」に由来しているという。出雲系の農耕の神様のようだ。石灯篭の形といい、独特の雰囲気がある。当初は出雲氏を祀っていたのだろうか、古代山城の変遷をさぐる者には興味がつきない。もとは今よりも西の場所にあったものが移されたようだ。

イタダとイナダ って音が似かよっていると思わへん? 大国主命を生んだ方が稲田姫なんだとか…。稲田姫命の夫はヤマタノオロチを退治した須佐之男命だと言うし、話が出来すぎたきらいがある。さらに小野氏以前には、この辺りを所領としていたのが出雲氏だという説があるので、いやあ 妄想がどんどん膨らみ面白くなってきた。



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神社の前より比叡山を望む


かつて崇道神社のおかれている地域は小野郷と呼ばれる小野氏の旧地であった。参考までに内藤湖南先生の『近畿地方における神社』を紹介して終わりとします。

近畿地方における神社』
古代山城地方の勢力は出雲氏から小野氏、そして加茂氏へと続く?
「下加茂の境内といって宜しい所に小さい柊神社というものがあります。それは延喜式神名帳などで見ますと〈出雲井於〉と申す神社であります。この神社は今では加茂の境内の隅の方に小さなものになって居るけれども、昔からあんなに小さいものであったかどうか一つの疑問である。…とにかくこの付近に出雲を頭にかむった地名、神社が色々あります丹波の国の桑田郡に出雲神社というものがあります。それからまた京都の北部にかけて、多分それに関係のあると思う出雲の地名をかむった神社があります。山端の北手に高野村という所がありますが、そこに出雲高野神社というものがあったということであります。今日ではそれが変りまして崇道神社というものになって居ります。それが出雲高野神社であるということを、色々神社の研究をした人が考証しております。

また京都の北部全体を出雲路と称して居ります。それでこれが大体出雲に関係がある。 —それが直ちに出雲国に関係があるかどうか知りませねが― とにかく出雲という一つの氏族が昔そこに割拠して居った所ではあるまいかということが考えられる。それではどうしてそこへ加茂というものが関係して来たかということになりますが、まだその前に関係したものもあると思われます。…崇道神社の山の裏手に小野毛人(おののえみし)という人の墓があって、銅板の墓誌(国宝)が出た所でありますので、それを研究するについて色々崇道神社なんかのことを考えるようになったのであります。

そこでまた延喜式神名帳によりますと、小野神社というものがその辺にあったという事であります。小野神社というものはどうなったかと申しますと、今日ではやはり高野村の中に加茂御影社というものがありまして、崇道神社の南側になって居りますが、それがそうであったという風に考えられて居ります。それが昔小野神社であったとしますとそこに小野というものが関係があったということになるのであります。

それでは小野というものはどういうように関係して来たかと申しますと、…小野毛人という人は聖徳太子の時代に隋に入りました小野妹子の孫にあたる人でありまして、すなわち聖徳太子時代から小野氏は著しく見(あら)はれて居りますが、歴史上小野氏というものはどういう系図を引いて居るかと申しますと、孝昭天皇の末孫であって、それから系図を引いて小野氏というものが出来たことになって居ります。その先祖の神社が近江国の滋賀郡に小野神社というものとなってありまして、そして小野氏が段々に盛んになった時に山を越えて山城の北部まで領分を広げて来て、小野毛人の墓などが高野の崇道神社の裏に造られるようになったのであろうと思います。そう考えて見ますと、京都の北部全体が出雲氏の関係であった時から見ると大分後であると思う。

小野妹子時代というものははっきり分って居る時代でありますが、その前の出雲氏のことは殆ど記録にも何にもなって居ないので、ただ神社に依ってそういうものがあったように思われるだけであります。そうすると京都の北部というものは時代の分らない前に出雲氏の関係であった土地であったが、ちょうど歴史の始まる時代、すなわち聖徳太子の前後からして近江の方に根拠をもって居った小野氏の支配に何時となく入って、それから後に加茂の関係が生じて来たのであろうと考えられます。

上加茂の方は古いかも知れませぬ。鴨建角身命の娘から加茂の別雷神が生れたというのでありますから、大分古いかも知れませぬ、しかしそれはとにかく、加茂の一部分の山奥に神社があったのが、加茂の氏人が段々広がって来て、ことに京都が帝都になりました関係から、その時分の大きな神社を一般に尊敬するようになりましたり、或はまた天子が尊崇される神様とか、或はその他の大きな神社というものが段々世に尊敬されて行きました。……それで段々加茂の氏人が広がって来て、元の出雲氏の占めて居った京都の北部地方を段々占領しまして、出雲井於神社という、もとの神様は隅の方に押しやられて、その大部分は下加茂の境内になってしまったという形になったのでありますが、……」


 

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上高野に広がる田圃

奥に見える山は比叡山。写真の西端には御蔭山があり、そこには御蔭神社(もう一つの小野神社?)が鎮座する。

 

 

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