比叡山西南の麓「一乗寺村」、今でいう一乗寺才形町に小さな禅寺がある。地元の者はその名を「芭蕉庵」(金福寺)と呼ぶ。コーヒーを売る小家もちかく、名物の丁稚羊羹を売る店も遠きにあらず。
寺への途中、むかし白川女だったと思しき花売のお婆さんとすれ違う。見れば手押し車には黄菊白菊香りゆかしげなるを数多のせている。さらに道を急ぎ道路わきの田んぼで稲刈る農婦に芭蕉庵への道を問えば かしこを指さす。
金福寺はもと天台宗の寺であったが後一時荒廃、江戸時代中期にこの寺に鉄舟という禅僧が再興したと伝わる。手ずから雪炊の貧をたのしみ、客を謝してふかくかきこもり、芭蕉の句を聞いては涙を流し風雅の世界に親しんでいたという。
突当たりが目指す金福寺(芭蕉庵)である。
ぶら下がっている板を小槌で叩くと寺の方が出て来る趣向だ。
「俳諧に門戸なし、只是俳諧門といふを以て門とせよ」…と蕪村は説いた。
まずは方丈に上がり聖観音を拝み、芭蕉・蕪村ゆかりの品々を鑑賞する。
蕪村の筆にしては… ^^;
「四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。土人-称して芭蕉庵と呼。……」
ご存じ「月日は白代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。……」。芭蕉と曾良の人物が雰囲気よく描かれている。これぞ俳画というもの?
ホテル藤田の屋上、それとも先斗町いづもや あたりの床から東山を見た図であろうか? しんしんと降る雪、きっと雪の降る音が聴こえて来るような夜だったのだろう。
次は芭蕉庵の方へ上ろう。
蕪村や道立が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。
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芭蕉庵の由来
"元禄の昔、芭蕉は山城の東西を吟行したころ、当時の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。
その後、八十五年ほどして、与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に納めた。" ー 金福寺リーフレットより
さて次は蕪村などの眠る墓を参ろうぞ。
遠方に見える山は、北(写真右手)より愛宕山、小倉山、嵐山、それに嵐山の手前に小さく名勝双ヶ岡が見える。
蕪村の妻 "とも"(夫の没後剃髪し清了尼と呼ばれる)も遺言によりこの墓で眠っている。
ちなみに墓の「与謝蕪村墓」の写字は雨森章廸、石工は今津屋庄三郎という。また蕪村研究者である頴原退蔵氏がいうには、与謝の読みは "よざ "と呼ぶそうな。
芭蕉翁のことを調べていたのだけれど、蕪村翁の方に心惹かれるようになってしまった。
【参考資料】
『洛東芭蕉庵再興記』…与謝蕪村著
『頴原退蔵著作集第十三巻』…頴原退蔵著