「洛東芭蕉庵」再興の発起人 - 忘れられた俳人 樋口道立を探しに真如堂界わいを歩いてみた


秋晴れの一日、「洛東芭蕉庵」再興の発起人 - 樋口道立の墓が紅葉の名所真如堂付近にあると知り、居ても立っても居られなくなり探し歩いてみた。その顛末を報告してみたい。


真如堂へ至る北参道

真如堂前」でバスを降り、先ずは紅葉の名所である真如堂(新正 極楽寺)へ向う。さて紅葉の進み具合はどうであろうか。北参道の正面にわずかだが紅い色が見え 期待が高まる。


本堂を北西より撮影

例年、この辺りの紅葉が早い覚えがある。昨年もこの場所から紅葉の撮影が始まった。いつも構図は決まってしまうのが情けないけど、こればかりはしょうがない?


弁財天を望む




元三大師堂前の参道(総門に至る)

さあ紅葉を楽しんだあとは 俳人道立の眠る寺を探しに行こう。





洛東九番・萩の霊場 迎称寺




門前の店の前で立ち話をしていた高齢のご婦人に極楽寺のこと尋ねると「すぐそこ」だと教えてくれた。「うちの墓がその寺の境内にある」と言うので、俳人の道立という人を知っているかと再び尋ねると、その名は聞いたことがあるけど、俳人だとは知らないと返ってきた。こりゃ幸先がいいわい。


極楽寺




樋口道立眠る墓地へ

境内の奥、突当たりが墓地になっている。途中には民家やアパートが立ち並んでいる。


右端が道立の墓

墓地の南西角に古い墓が移されているようだ。左から二番目、「卜齋樋口君墓」が道立の養父の墓。


道立・樋口源左衛門の墓


樋口道立のこと
「自在庵道立」「柴庵」という号もあるようだ。道立は蕪村門下であった。通称樋口源左衛門といい、松平大和守の京留守居と伝わっている。つまり武士であり代々儒を以て立った家(実の父の名は江村北海)に生まれた儒学者であったようだ。

因みに道立の大祖父伊藤担庵は、芭蕉の漢学の師であったという。樋口源左衛門の住んでいた所というと、下立売西洞院東入るというから、な、な、なんと私と生活圏が同じではないか、こいつぁ驚いた! 付近には古義学で有名な伊藤仁斎儒学者山崎闇斎がいた。…京都は狭いわ。

道立と芭蕉の因縁?
蕪村の著した『洛東芭蕉庵再興記』には、「…かたのごとくの一艸屋を再興して、ほとゝぎす待卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑ、かならず此寺に會して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ。再興発起の魁首は、自在庵道立子なり。道立子の大祖父担庵先生は、蕉翁のもろこしのふみ学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此挙にあづかり給ふも、大かたならぬ宿世のちぎりなりかし。」と蕪村は言う。


墓石の裏に刻まれた碑文

「君諱敬義、号道立、元文三年十月十八日生、文化九年臘月七日卒、齢七十五」と読める(ブロック塀と墓石との間は距離が近いので撮影が困難だった)。


道立の養父・樋口朴齋碑文

「樋口君諱敬卿号卜齋、勢州人、本山崎氏、其先出自藤姓、世為豪族……」碑文は江村北海(道立の実の父)の撰になる。樋口卜齋は明和二年十二月十二日、六十一歳で歿している。
ちなみに碑文の全文は『頴原退蔵著作集』第十三巻「蕪村にかんする新資料」にある。



洛東芭蕉

" ばせを庵といふ名のゆかしくて爰もその宗祇の宿や蝉の声と申すて侍りしも既に十とせあまり三とせを過しぬ後の今を見るごと今の古へを見るが如くならんと其の因すて難くてそれが碑をたて社を結びいほりをいとなみふたゝびばせをのやどりとなして百年の闕(けつ)を補ふといふことしか也 "  道 立(花押)…金福寺蔵


    夏を宗とせめて拙き此庵
  道立




    かけまはる夢百とせの胡蝶かな  道立

    夏山や登りて向ふ峰ひとつ    道立




夢は枯野をかけ廻る?
松尾芭蕉の足跡を追って北陸、そして東北へと旅を続けてきたけれど、芭蕉から興味は与謝蕪村へと移ってきた。そしてまた蕪村の師匠である夜半亭巴人、蕪村門下の道立へと、どんどん芋ずる式に泥沼にはまって行くようだ。これはいつものことだけれど、こればかりは治らないようだ。

いにしえの歌人俳人たちは旅に出て歌を、句を詠んでいるということが分ったのは収穫かもしれない(気がつくのが遅かったけど)。芭蕉杜甫李白から学び親しみ、そしてまた西行を追い、「夢は枯野を駆けめぐ」っている。夜半亭巴人も、蕪村も、芭蕉を追いかけて東北や上総、丹後などを数年、長くて十年の旅路を送っている。そして後世に残る作品をものにしている。そんな生活から、絵描きや写真家は学ぶところがあるような気がする。

歌、そして俳諧にほとんど興味がなく、つくることもしない私がどうして芭蕉を追いかけるようになったのか、それが不思議だ。きっと自分でも気づいていない所に魅力を感じているのだろう。芭蕉を追いかける旅はまだ終らない…。

 

東北院

極楽寺の西隣には世阿弥作-謡曲「東北」で知られた東北院がある。
この寺は『源氏物語』の作者-紫式部が仕えていた一条天皇中宮彰子様の発願により法成寺(藤原道長が建立)内に造られた三昧堂を前身にするという。またかつてこの寺には和泉式部が住んでいたとも伝えられている。

境内には和泉式部が手植えしたと伝わる「軒端の梅」がある。残念ながら建物内部は通常非公開である。


本堂前より門を撮影

寺の関係者の許可を得て境内へ入り、あちこち撮影する。


いわゆる "時宗四軒寺"  を撮影。手前から東北院、極楽寺大興寺、迎称寺と東につづく。

【参考資料】
『洛東芭蕉庵再興記』…与謝蕪村
『頴原退蔵著作集』第十三巻…頴原退蔵著


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