ただのケチとは違う 京の大金持ち藤屋市兵衛(井原西鶴-世界の借屋大将)


江戸時代は元禄文化の花が開こうとした頃の話である。「世界で一番の金持ちはわたしだ」と大層自慢していた男が京の都におった。その当時は大坂もまだ田舎であったし、江戸は大きくはなったものの所詮新開地にすぎず、知識人の層といい、町人の財力にしても京の都ほどの土地は、その頃はどこにもなかった。

その、世界で一番の金持ちはわたしだと言った男の名は藤市といった。家業は長崎商いの他に相場物の買置き、それに貸金業をしていたようだ。自慢していた訳は、わずか二間(約3.6メートル)間口の商店の借家住まいの身でありながら、銀千貫目(3,750kg)、山吹色の小判にすれば一万六千六百六十両余の財産を持っていたのだとか。さて現在の貨幣価値に換算すればいくらになるのやら。

※平成十九年の米の価格に基づいて計算した価格によれば、銀一貫は二百二十万円に相当するようだ。なので現代の貨幣価値に直すとその一千倍ということになる。実際はモデルになった藤市は銀二千貫の財産を持っていたようだ。そりゃあ祇園祭の鉾や山に豪華な輸入品の懸想品を寄付できたわけだ。


借家大将の店構?



この藤市は利口者で、一代でこれほどの金持ちになったのであった。世渡りの基本は堅実であること、そして健康であることを信条にしていた。この男は家業のほかに、反故紙で帳面をとじておき、店をはなれず、一日中筆をにぎって、両替屋の手代が店の前を通れば、銭や小判の相場をきいて帳面に書きつけ、米問屋の手代には米の取引相場を訊ね、生薬屋や呉服屋の手代には長崎の情報を聞き出し、繰り綿や塩・酒の相場は、江戸の出店から書状の着く日を待って記録するという具合に、毎日 万事の相場を書きとめておくので、分らないことは、この店に尋ねれば分かるということになり、都中から重宝がられることとなった。

藤市の普段の格好はというと、肌に一重の襦袢を着、その上には大きく仕立てた木綿の着物に綿を三百目を入れて、これ一枚よりほかに着ることがなかった。袖口にはヘリ(袖覆輪)をつけて袖口がボロボロになってもヘリを付ければ見栄えが良いというものだ。この袖覆輪というものは藤市がやりはじめて世間に広まったもの。これで当世の町人風俗が見た目もよく、しかも経済的にもなったのである。藤市は衣装デザイナーの素質もあったものと見える。

この藤市は鹿皮の革足袋に雪駄をはいて、ついぞ烏丸通四条通などの大通りを急いで歩くようなこともなかった。もっと安価な履物を用いていたようだ。さらには、一生のうちに絹物といっては紬だけで、その一枚は花色染であったが、もう一枚を染返しのきかぬ海松茶染にしたことを、若い時の無分別であったと、二十年もの間 悔しく思っていた(どんだけー!?)。

礼服も紋所を決めず、丸の内に三つ引きか、または一寸八分の巴をつけて、土用干しにも汚れぬように畳の上にはじかには置かず、礼装の麻袴と鬼もじ(粗く織った麻布)の肩衣も、いく年着てもなお折り目正しくしまっておいた。町内つき合いで出る葬礼には、しかたなく清水寺下の鳥辺山に野辺送りしたが、人より遅れて帰る途中、六波羅の野道で供の丁稚と一緒にセンブリを根引きして、「これを陰干しにしておけば腹薬になるぞ」と言ってただでは通らず、けつまずく所では火打石を拾って袂に入れるほどであった。転んでもただでは起きぬ、とはこのことか。いやはや落語に出てくるような振舞ではないか。お金を貯める心得とは、始末することも大事だが、まずは無駄な金は使わぬこと、これに尽きる。
こう藤市の生活を書いてきたが、この男は生まれつきのケチなのではない……



※後編につづきます。


【参考文献】
『日本永代蔵』角川ソフィア文庫
『近世文学と西鶴』三田村鳶彦


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