姿なきあとまで後世に名を残した吉野太夫、前代未聞の遊女と伝わる。容姿、性格のどれ一つとっても文句のつけようがなく、情の深さと言ったなら海よりも深し?
「都をば花なき里になしにけり吉野は死出の山にうつして」と灰屋紹益が詠んでいるのはその太夫のこと。
好色竹斎物語
むかし都の外れに竹斎という名の貧しい町医者が居った。この男治療がヘタで患者が寄りつかず、食い詰めた藪医師(やぶくすし)と世間から言われている。その治療といったら、井戸に落ちた人を助けるのに蛸の吸出しを井戸のフタに塗り人を吸い出すという荒療治(奇策?)を行い、それは見事失敗に終る。
また治療の一つに “おこり”(マラリア?)がでてくる。その症状は、①熱がある。②頭痛(びんのあたりが痛む)。③むね虫ありという。
竹斎が患者に薬をあたえると「おこりは そのままおちにけり」とたちどころに治ったので、「薬は何ぞ」と問いかければ、「三年になる古畳の黒焼き、四五年ほどになるふるがみこ の黒焼き」と答える。“ふるがみこ” とは当時の旅の必需品である紙子(和紙で作った衣類で、暖かく寝巻にもなるみたいで芭蕉の紀行文にも出てくる)。とにかくやることがハチャメチャな医師なのだ。
この竹斎、とある日に郎党のニラミの介と共に北野の社に参りてみれば、貴賤の人の限りなく、輿や車も大混雑。時めきあえるその中に、車の下すだれ、蔀、やり戸の隙間より優にやさしきお姿をひと目見しより忘れかね、夢か現かこれぞ「源氏物語」の世界かな。垣間見たその姿こそ今を時めく吉野太夫。その面影忘れかね、それ以後昼となく夜となく、頭の中は太夫のことばかりが占めていて、三度の飯も喉を通らないという有様。ましてや医師の仕事もそっちのけ(もとより患者などありゃせんが)。
高嶺の花と諦めようとはしたけれど、それでも思いはつのるばかり。そしてついに近所の御隠居から太夫の揚げ代五十三匁(もんめ)を都合し島原の通りを行ったり来たり。意を決して揚屋の玄関を入ってみたものの、女将に薄汚い身なりを一瞥され、悔しくも門前払い。
と竹斎外に放り出されし時、折しも揚屋の中が騒々しい。様子をうかがえば、帳場の奥で揚屋第一の遊女吉野太夫がみぞおちのあたりを押さえて苦しんでいる。顔面は真っ蒼、背中も痛いとカタツムリのように丸くなっている。これはワシの出番じゃと竹斎、医師であることを告げ、太夫の脈を診、胸やお腹、背中を触ったりトントン叩く。
昼に何を食べたか、お腹の調子はどうかなどと医師らしきことを訊ねる。そして下した治療法はといえば、朝晩十薬を煎じた茶を飲むこと、そしてお尻に蛸の吸出しを綿布に付けて貼る事、この二つだった。はてさてこれで吉野太夫の健康は回復するのだろうか。
さて数日がたった夕方、揚屋の男衆が竹斎の住むオンボロ長屋の前に立った。板戸には「天下一の藪医師の竹斎」の看板、そのそばには一首の歌
"扁鵲や耆婆にも勝る竹斎を知らぬ人こそ哀れなりけり"
と書いてある(大意はというと、その昔中国に扁鵲と耆婆 [ へんじゃく・ぎば ] と言う名の死人をも生返らせるという名医がいたそうな、それより勝る?)。それはさておき男衆が竹斎に伝えるには太夫が元気になったのでお礼をしたい、ついては今夕一席設けたいとのこと。
さてさてその日の夕刻、揚屋の二階の間に通された竹斎、祝いの酒 "嶋臺" の酔いも回ってきた頃合いに、我が想いを告げようと「憂き事のみの増鏡、晴れぬ思いにかき曇り参らせつつ、誠に及びも及ばれぬ、雲の上なる月影は、手にも取られぬ事なれども、上の空なる思いして、昨日と過ぎ今日と暮らし、明日の命も存じ候わねば、せめて命の内に、この事を夢ほど知らせ参らせて、我の心のそのうちは、かように思い申すとは、露ばかりこの時に申さずは、又いつの世にかは申し上げんと存ずれば、人目を恥じず恐れをも顧みずして、推参を申上げ参らせ候」とかねて用意していた巻紙の文案を息も継がず吉野太夫に語る。
返す太夫は「その心入れ不憫なり」とやおら竹斎ににじり寄る。身をふるわせて前後を忘れた竹斎、うす汚れた顔より涙と鼻水を流し(ああ汚いなあ)、この有りがたき御事忘れましょうか、生涯忘れられません」。すると太夫、灯を吹き消し、艶やかな着物の帯を解き「竹斎さまのお望みに身をまかせます」と身もだえる。
とそこにトントンと階段をかけあがる音が響く。「誰やらまいる」と慌てる竹斎。百年の想いも気弱な竹斎には萎むは気持ちだけではない。やや今夜はどうも気がのらぬわい、また今度と逃げ腰になる。フーテンの寅じゃあるまいに、「この期に及んでなにを仰る。この事なくては夜が明けても帰さじ。あなたも男ではないか。吉野が腹の上にたまたま上がりて空しく帰らるるか」と太ももをさすり、歯朶を噛み、妖しげな眼差しに柳腰をふるわせ、ようよう四ッの鐘(午後十時の時鐘)のなる時、どうやらこうやら結末をつけさせた。その上誓いの盃までして帰したのだった。
竹斎-兼好法師に劣らず?
夢のようなひと時をすごした竹斎、帰る道すがら考えた…「昨日は盛りと見えし花も、今日は木陰の塵となり、宵には晴明たる月も、暁は別離の雲に隠れる。一生は風の前の灯、誰か百年を保たん。ただこれ朝顔の日影待つ間のあだし身なり。今朝まで紅顔なりしその形、正しく見たりしその人も、夕の風に誘われ、露と消えつつ鳥辺野の煙となりて跡もなし。驚くべし驚くべし。ご用心候べし。なぜなら今のことぞかし。」
時に吉野太夫女ざかりの二十六歳、貧しい竹斎のどこに惚れたか「その面白さ限りなく、優しく賢くいかなる男にくらべても恥ずかしからず」とは、蓼食う虫も好き好きという言葉通りでそれを地で行くようなもの。どこで太夫の請け出し料を都合したのか、ほどなく祝儀を取急ぎ、婚礼の贈物山をなし、嶋臺の装い、相生の松風、吉野は九十九まで。ああ 目出度し めでたし。
※馬鹿話でお粗末様でした。
【参考文献】
・日本古典文学大系『仮名草子』ー岩波書店
・日本古典文学大系『西鶴集-上』ー岩波書店