『カサノヴァ回想録』に彼の幼年時代と欧州の医療を見る

 

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カサノヴァって誰?

「自己紹介」です
^^

 “ わたしには、自分の心に深く根をはっている、神の方針の当然の果実ともいえる素晴らしい教えの土台があったけれども、わたしは生涯、自分の官能の犠牲者だった。わたしは好んで道に迷い、たえずあやまちのなかに生きつづけ、自分があやまちのなかにいることを知る慰み以外には何の慰みもなかった。

だから、親愛な読者よ、わたしの語り口に、悔悟者の姿や、若気の至りの道楽を顔赤らめて告白する人間の気兼ねが認められないからといって、わたしの物語のなかに、どうか破廉恥な自慢話の特質などをみいだすようなことは絶対にせず、一般的な告白に似つかわしい特質だけをみつけだしていただきたい。これは青春の馬鹿話なのだ。諸君は読みすすむうちに、わたしがそれを笑っていることに気がつくだろう。もし諸君が善良ならば、諸君もわたしとともに笑いとばしてくれるだろう。

わたしは今なお生きつづけているけれども、齢(よわい)七十二歳の1797年になって、初めて「わたしは生きた」ということができるのだ。とはいえ、わたしの話に耳を傾け、つねに友情の証を示し、また、わたしの方もつねに交わりつづけてきた良き仲間たちに、わたしに関することをあれこれと語ったり、またとない笑いの種を提供したりするお笑い草以上に、愉快極まりない楽しみをつくりだすことは、わたしにはむずかしいだろう。よいものを書くためには、わたしはただ、仲間が読んでくれるということを思い浮かべればいいのだ。


…俗人たちに、わたしは自分の書いたものを読ませないようにすることはできないが、かれらのために書いたのではないということを知ってくれれば、それだけで十分である。

…わたしはこの回想録を、若い人たちのために書いたのではない。若い人たちは、堕落から身を守るために、何も知らないで青春時代を過ごす必要がある。しかし、わたしはこの回想録を、この世に生きながらえて誘惑などに動かされなくなった人たち、そして、あまりに火のなかに住みなれてしまったために、火蜥蜴(サラマンドル)のようになってしまった人たちのために書いたのである。

真の美徳は慣習でしかない。よってわたしはあえてこういいたい、本当に徳高い人は、ほんの僅かの苦痛を感じることなくそれを実行する人なのだと。そうした人たちは、不寛容な気持ちなどは少しも持っていない。だからわたしは、かれらのために書いたのだ。”



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カサノヴァ、喜劇役者の父 そして母のことを語る

カサノヴァの父ガエタノ・ジュゼッペ・ジャコモは、
❝ 小間使い役ばかりしていたフラゴレッタという女優に夢中になって家出をしたのである。恋はしたものの、生きるに必要なものを持たなかったかれは、自分自身の肉体を利用して生活費を得ようと決意し、ダンスに専念した。そして五年後には喜劇を演じたが、その才能による以上に、素行によって異彩を放った。

 
移り気のためか、或いは嫉妬によるものか、その点は分からないが、かれは フラゴレッタ のもとを去ってヴェネチアに行き、サン・サムエーレ座に出ていた喜劇役者たちの仲間に入った。


かれが住んでいた家の真向かいには、ジェロニモ・ファルジという靴屋が妻のマルツィアと、実に美しい十六歳の一人娘ツァネッタと三人で暮らしていた。若い喜劇役者はこの娘にほれてしまい、かの女の心を動かし、ついに駆落ちする気にしてしまった。というのは、喜劇役者であるかれは、役者などは深い極まりないものとしか眼に映らなかった ジェロニモ からはなおさらのことだが、母親の マルツィア からも、娘をもらうための同意を得るようなことは先ず期待できなかったからである。

若い恋人は、必要な証明書を用意し、二人の証人をともなって、ヴェネチアの総大司教のもとに出頭し、結婚式をしてもらった。 ツァネッタ の母の マルツィア は大声をあげてわめき、父親は悲しみのあまり死んでしまった。わたし( カサノヴァ本人)は、この結婚から九カ月後の1725年の4月2日に生れた。”



カサノヴァ、子ども時代を語る

八歳と四ヵ月になっていたカサノヴァは、
“ 部屋の隅に立って、壁に向ってかがみこみ、頭をかかえながら、鼻からどくどくと溢れでてくる血が、床の上を流れるのをじっとみていた。わたしを非常に愛してくれた祖母のマルツィアは、そばにかけよって、きれいな水で顔を洗ってくれた。そして、家族の者の誰にも気づかれないようにしてゴンドラに乗せ、ヴェネチアから半里しかない、大変に人の多いムラーノ島につれていった。

ゴンドラをおりると、われわれは一軒の荒屋に入ったが、そこには、一匹の黒猫を抱いて、粗末なベッドに坐っている老婆がいた。かの女の周囲には、まだほかに五、六匹の猫がいた。かの女は魔法使いだったのである。二人の老婆は、恐らくわたしのことについてであったろうが、長いあいだ話しあっていた。この ファルリ訛りの対談が終わって、祖母から一デュカを受取ると、魔法使いはひとつの箱をあけた。そして、わたしを抱きかかえてその中に入れ、こわがることはないよ、といいながら蓋をしめた。もしわたしに、いま少し分別があったなら、そうしたことは、わたしをおびえさせたに違いない。

だが、わたしは、ボーッとしていた。血がまだ止まっていなかったので、ハンカチーフで鼻をおさえながら、しかし、外から聞こえて来る騒音などは全く気にしないで、箱の隅でじっとしていた。わたしは次から次へと、笑い声、泣き声、歌い声、叫び声、それに上から箱をたたく音をきいた。だが、そんなことは、わたしにはどうでもいいことだった。そうするうちに、やっとのことで、わたしは箱から引き出された。鼻血もとまっていた。この不思議な老婆は、百度もわたしを撫でさすったあとで、服をぬがせてベッドに寝かせ、何か薬品をもやし、その煙を一枚の布切れのなかにかき集めた。


それから、その布でわたしをくるみ、呪文をとなえた。それが終わると、布切れを取りさって、とてもおいしい味のボンボンを五、六個、たべるようにとさし出してくれた。そしてすぐに、こめかみをなでさすり、また、甘美な匂いを発散する香油で襟首をこすり、それがすむと服をきせてくれた。かの女は、どんな治療法をしてもらったかを誰にもいわなければ、わたしの鼻血は、いつとはなしにおさまるだろうといった。だが反対に、もしこの秘密を誰かに口外するようなことがあれば、血は一滴もなくなり、そして死んでしまうだろうとおどかした。”


ムラーノ島訪問のあともカサノヴァはまだ鼻血を出したが、
❝ それは日ましに少なくなっていった。そして、わたしの記憶力も少しづつ発達していった。ひと月もたたぬうちに、読むことをおぼえた。わたしの病気回復が、このような突飛なことのおかげであるというのは、恐らく笑止なことというべきだろう。しかし、ああしたことは病気回復に役立つものではないという人がもしあれば、それは間違いというべきである。


…最も重い病気をなおす薬が必ずしも薬屋にあるとは限らないのだ。毎日、何らかの現象が、われわれの無知を証明しているではないか。だからわたしは、その頭のなかから、あらゆる迷信を完全に排除しきっている学者などは、この世に極めてまれな存在であると信じている。多分、この世に魔法使いなどは絶対にいなかったと思うが、巧みに自分を魔法使いだと思いこませる術にたけた連中にかかった人々にとっては、魔法の力はつねに存在していたのである。❞



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カサノヴァの父急死する

ある事件があってからカサノヴァの父は、

❝ 頭から耳にかけて膿瘍ができ、一週間あまりで墓場につれ去られた。医師のツァンベリははじめ病人に便秘剤を与えていた。次にこの誤診の償いができると信じて海狸香(カストロレウム)を用いたが、父はそれをのむと痙攣を起こして死んでしまった。かれが死ぬとすぐに、膿瘍は耳のところで破裂した。…父は三十六歳の働き盛りで世を去ってしまった。❞


カサノヴァの母は若く美しかったが、あらゆる再婚の申し込みを断り、
❝ 母は先ず、わたしの世話をしなければならないと思った。それは偏愛のためからばかりではなく、わたしが病身で、どう扱っていいか分からないほどになっていたからである。わたしはいたって弱かった。食欲もなく、いかなることにも熱中できず、まるで白痴みたいだった。❞



カサノヴァの病気の原因

❝ 医師たちは仲間内でわたしの病気の原因について議論し合っていた。「一週間に二ポンドも血がなくなるんだ。血は全体で十六ポンドから十八ポンドしかないのに。ともかく、このような多量な血液化は、いったいどうして起こり得るのか?」とかれらはいった。かれらのひとりは、わたしの乳糜(にゅうび)が、みんな血に変わるんだといった。そしてまた、他のひとりは、わたしが呼吸する空気は、呼吸のたびに肺臓の血をふやしているに違いなく、だからわたしは、つねに口をあけているのだと主張した。これは、六年後に、父の親友であるバッフォ氏からきいたことである。



この バッフォ氏 は、パドヴァの有名な医師マコッペに相談してくれた。マコッペ医師は、書面をもって自分の意見を伝えてきた。いまなおわたしが保存しているこの書面には、[われわれの血は弾力性のある流動物で、量の増減はあり得ないが、濃度の増減をするものであって、わたしの出血も、血液全体の濃度にのみその原因があり、それは、血液の循環を容易にすれば、自然におさまるものである] と書いてある。


また、[生きようとする天性の欲求の助けがなかったならば、わたしはすでに死んでいたろう] とも記されてあった。そして結論は、[わたしの血が濃くなった原因は、もっぱら、わたしが呼吸する空気にあるのだから、空気を変えさせるか、さもなければ、この世から姿をけす覚悟をしなければならない] というのだった。そして、かれの意見によれば、わたしの顔だちにうかがえる間抜けな感じも、ただ、わたしの血液の濃さにその原因があるとのことだった。❞


バッフォ氏の骨折りでカサノヴァはパドヴァのさる寄宿舎に入ることになった。

❝ 1743年の4月2日、ちょうど満九歳になった日に、わたしはハシケ(ブルキエーロ)に乗せられ、ブレンタ運河を通ってパドヴァに連れていかれた。われわれは夜の十時に、夕食を終えるとすぐに乗船した。…わたしは母と広間で寝たが、他の同行者二名は小室(カメリーノ)で夜を過ごした。❞



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幼少のカサノヴァ地動説を知る

❝ 夜が明けると、母は起きて、ベッドの真向かいの窓をあけた。…ベッドは、低かったので、わたしは陸地をみることができなかった。その窓からわたしがみたものは、どこまでも河縁に立ち並んでいる樹木の頂だけだった。船は進んでいたが、いつも同じ動きなので、わたしには動いているのが分らなかった。それで、さっと眼の前から消え去ってしまう樹が、じつに不思議に思えた。「ああ! お母さん、どうしたんだい? 樹が歩いてるよ」とわたしは叫んだ。

ちょうどその時、二人の貴族が入ってきたが、かれらはわたしが唖然としているのをみて、何に夢中になっているのかと尋ねた。「樹が歩くのはどうしてなの?」とわたしは答えた。
かれらは笑いだした。しかし母は、溜息をついてから、憐れむような調子でいった。「歩いているのはお船なんだよ。樹じゃないのよ。さあ、服をきなさい」

わたしは、すぐにこの現象の理屈がわかった。そして、全く先入観のない、芽生え始めた理性を頼りに、考えを先へと進めた。「すると、太陽も歩くんじゃなくて、逆に、ぼくたちが西から東に廻るんだね」とわたしは母にいった。この言葉をきくと、善良な母はあきれはてて大声をあげた。グリマニ氏は、わたしの低能ぶりを憐れんだ。わたしは茫然とし、何か悲しくなって泣きそうになった。

そのとき、バッフォ氏が元気づけてくれた。かれはわたしに飛びつき、やさしく抱擁していった。「そう、坊やのいうとおりだよ。太陽は動きゃしないさ。元気をお出し。いつもそんな風に考えたらいいんだよ。笑いたいやつは笑わしておくといい」。

母はそんな教訓をしたりするあなたは、気狂いになったんじゃないのか、とかれに尋ねた。しかし、この哲人は、母に返事さえもせず、純粋で素朴なわたしの理性にわかるように、簡単に理論をときはじめた。これは、わたしが生涯で味わった最初の真の喜びだった。もしバッフォ氏がいなかったら、この瞬間は、わたしの悟性をさげすむのに十分なものとなっていたことであろう。❞

※ 続きます


 ※引用は全て『カサノヴァ回想録』窪田般彌 訳
 ブロックハウス版 河出書房新社発行(1968)による

 

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