数日前から隣家の庭に鶯がやってきて鳴いている。たいてい朝のうちである。今朝はきれいな声でようやく “ケキョッ” から “ホーホケキョッ” と鳴くことができるようになった。
いつの頃からか梅の枝(花)には鶯、というイメージが付いて回るようになった。けれども梅の枝に鶯の止っているのを見たことはない(たいていメジロ)。鶯の鳴き声のする所を探すと、よく繁った木々の中からか、竹藪の中からである。初夏になる頃には、山の中に帰るのか “鶯の谷渡り” をひんぱんに聞く。これは鶯が自分の縄張りを告げているみたいだ。
ところで、近ごろの菅総理の国会答弁や記者会見の中継をTVで見ていると、その表情(マスクをしているので目つきから推測すると)はシンドイ気に見える。痛々しさを感じるほどである(勝手な思い込みかもしれんけど)。今夜の「緊急事態宣言」再延長の首相会見ではどんな表情を見せてくれるだろうか。
話は変るけど、今朝ある人の随想録を読んでいると興味深い文章にぶつかった。
自分の支配下に国を治めようと望むよりも、心静かに服従するほうがはるかにまし
だ。
キュロスも、「支配される人たちよりも劣っている者は支配する資格がない」と言
った。「笏(しゃく)の重さを知っている人なら、地上に落ちているのを見ても拾
うまいと言った王セレウコスの考えに賛成するだろう。セレウコスは、善良な王に
とって、その仕事がたいへんでつらいからそう言ったのである。たしかに、自分を
治めることでさえこんなにむずかしいのだから(総務省の幹部を見ていて よう分か
るわ)、他人を治めるということは生やさしいことではない。
統治することはたいへん快適に見えるが、人間の判断力の弱いことや、新しく疑わ
しい事柄を選別することのむずかしさを考えると、私はどうしてもこう考えたくな
る。
すなわち、導くよりも従うほうがはるかに楽で愉快であるし、人の通った道をたど
り、自分のことにだけ責任を負えばよいというのは、じつに気楽なことである、
と。
※モンテーニュ『エセ―』より 岩波文庫 原 二郎訳
菅総理の信奉(?)するマキャベリがどう言っているか知らんけど、内藤湖南が言うには「政治とは支配すること」だそうである (意に沿わない官僚を左遷したり、警察機構や軍隊を持つということは、そういうことなのね?)。