惟喬(これたか)親王と紀貫之、そして在原業平とはどのような関係にあるのか詳しくは知らないけれど、惟喬親王の母の姓は「紀」であったと覚える。それが原因なのか、惟喬親王は文徳天皇の第一皇子でありながら「藤原」姓の女御の御子である第四皇子(惟仁親王)に皇位を譲ることになった悲運の親王として語り継がれている。
なぜこんなことを言うかといえば、先日 紀貫之の残した『土佐日記』を読んでいたところ、貫之が任期先の土佐から船で都に帰郷する際(なんと55日もかかっている)、淀川の上流枚方にあった渚の院付近を通過している時、そこでの惟喬親王と在原業平の風雅な交流を思い浮かべ、
“これ、昔名高く聞こえたる所なり。故惟喬親王の御供に、故在原業平の中将の、世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし といふ歌よめる所なりけり”
と「貫之」が語った場面があったからである。惟喬親王のことは、わたしが撮影に行く先々で耳にするので、一度はお墓を訪ねてみたいと思っていて、今回の訪問にいたったというわけである。
比叡山に連なる山に惟喬親王の墓がある。上の写真奥に見える山の西南端(右端)に目指す墓がある(経路が分かりにくいので写真を添える)。
京都バス「野村別れ」バス停で下車し、バス停を京都方向に200mばかり戻ると分岐の広い道があるのでそこを上る。
民家の脇の登り坂を行くと意外にも棚田が現れた。標識にしたがい東の山の方角に進む。写真右手に見える道は西願寺へ行く道なので逸れぬよう 入らぬよう。
舗装道路を真っすぐ進むと石垣にぶつかる。その石垣にそって、草ぼうぼうの砂利道を写真右手方向に進む(あと200mほどか)。
左手に共同墓地の階段を見て、そこを通り過ぎると前方には鬱蒼とした林が見える(もうすぐ ^^)。
左側の石段がお墓へ至る道。右側に見える社がお墓を守る小野御霊神社。
左上にお墓がある。
千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変はらざりけり
千年もの歳月を経た松ではあるが、その松に吹く風の音は、昔と変わらず、寒いくらいに身にしみることだよ。
この歌は論語「歳寒の松柏」の故事を踏まえ、皇太子になれずに失意のまま世を去った惟喬親王の境遇を思い遣っている。親王の故地に吹く松籟(しょうらい・松風の音)が昔と変わらずに身にしみること、そして親王の遺徳が「千代経たる松」のように永劫不滅であることを格調たかくうたい上げている。
君恋ひて世を経る宿の梅の花昔の香にぞなほにほひける
惟喬親王のことを恋しく思って、幾年も過ごしてきたこの宿の梅の花は、昔と変わらない香りを放ち、今でも美しく咲いていることです。
※ここまで引用した歌、および現代語訳と評釈は角川ソフィア文庫、西山秀人編『土佐日記』より。引用が多く申し訳ないが、惟喬親王と在原業平の関係については次に紹介する『伊勢物語』などにも見られる。
春の心は
“昔、惟喬親王とおよびする皇子がおいでになった。山崎よりさらに遠くに水無瀬(みなせ)という所に離宮があった。毎年の桜の花盛りにはその離宮へおいでになったのだった。その時右馬寮(うまりょう)の長官であった人をいつもつれておいでになった。今はそのころから時代がすぎて長くたってしまったので、その右馬寮の名前(在原業平のこと)を私は忘れてしまった。
鷹狩は熱心にもしないでお酒ばかり飲んでは和歌に夢中になっていた。そのとき実際鷹狩をする交野の淀川べりの家、その渚の院の桜はとくに風情があり美しい。その桜の木の所に馬からおりて腰をおろして、花盛りの桜の枝を折って冠の飾りにさして、上中下あらゆる階級の人々みんなでそれぞれ歌をよんだ。馬の頭だった人がよんだ歌は、
世の中にたえて桜のなかりせばはるの心はのどけからまし
(この世の中に全然桜がなかったとしたら、花が散るかと心配したり、名残を惜しんだりすることがなく、春の人の心はのんびりすることであろうに)
とよんだのだった。また別の人の歌は、
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
(散るからこそいよいよ桜はすばらしいのだ。この悩み多い無常の世に、何が久しくとどまっていることがあろうか。桜も同様久しくとどまる必要はない、はかなく散るこそ最高だ)
とよんで、その桜の木の所は立ち去って水無瀬離宮の方へ帰るうちに日暮れになった。……”
※『伊勢物語』講談社学術文庫版 現代語訳:阿部俊子
惟喬親王の墓付近には、苔むし 長年の風雨に晒された石仏と墓石があった。
惟喬親王と業平
“在原業平は貞観七年(865)三月四十一歳で右馬頭に任ぜられ、貞観十四年(872)七月惟喬親王が出家せられるまで七年間ずっと 右馬頭であった。したがって(「伊勢物語」では)惟喬親王、紀有常など具体的な名前を出して物語が記されており、『古今集』の中の業平の歌をよんだ人物として右馬頭とよびながら、「時世へて久しくなりにければその人の名忘れにけり」というのは、「昔、男ありけり」の形にそろえるための明白な故意の技巧という外はない。
業平が右馬頭であったころの惟喬親王はどのような状況の中にあられたのだろうか、
……(惟喬親王が)七歳の折嘉祥三年三月に弟惟仁親王が藤原良房の娘明子の腹に誕生し、同十一月立太子、天安二年十一月九歳で清和天皇となった。さらに貞観六年惟喬親王が二十一歳で常陸の太守となった。ちょうど業平が 右馬頭になった前年である。
この四年後貞観十年(868)清和天皇と藤原高子女御との間に貞明親王誕生、翌年二月この皇子が二歳で皇太子となって惟喬親王の皇位継承の望みはその二十六歳の春完全についえ去った。かくて貞観十四年二月上野太守に任ぜられた後、七月二十九歳で出家された。
こう見てくると業平が右馬頭にあった期間は、惟喬親王のはかない夢が完全についえ去った時期である。この親王が水無瀬に出かけて花をたずね和歌に遊び酒を汲んだのは青春時代への惜別であり、心の整理時間であったと見られよう。その供をしたのは相当の数の人々であったろうが、業平、有常らは風流を解し歌の上手であるとともに、親王にとって気のおけない身内でもあった…。
或る説では、惟喬親王の憂悶の情を察して有常業平等の歌の中には切々とした情がよまれているとも言うが、ここではそのような状況を背景にもちながらもやはり、交野での一行の中で右馬頭を中心とした人々の歌の巧みさを語るものとしてよみたいと思う。”
紀貫之の業平評は、
「その心あまりて、言葉足らず、いはゞしぼめる花の色なくて、匂残れるが如し。」と言っている。
※『伊勢物語』講談社学術文庫版 補説:阿部俊子
『伊勢物語』八十二段、八十三段には、惟喬親王と業平の主従を越えた友情が物語られている。
お参りのあとは元来た道を戻る…。
向い側の山には江文神社、江文峠を越えたその先には静原の里がある。
浄楽堂とは
棚田を眺めていると、右手にいわくありげな「浄楽堂」というお堂が目に入った。妙に気になって一枚だけ写真に納め、後日調べたところ驚くべき事実が判明した(大袈裟な)。な、なんとこのお堂には惟喬親王ゆかりの “秘仏”(年に二回、成人の日と地蔵盆のある8月24日に近い日曜日に開扉される)があるようなのだ。堂内には平安中期頃の作と思われる十一面観音菩薩像、両脇侍には阿弥陀如来像と地蔵菩薩が。これは是非とも8月には拝みにいかなければ!
ちなみに浄楽堂とは惟喬親王が住職をしていた寺の名なのだとか。
大原を訪ね思うこと
二週間前にも大原を訪ね、三千院付近の石垣のある通りを縦横に散策していた わたしがいた。そして田んぼの写真を撮ろうとしていたのだけれど、獣除けの電気柵が気になってあまり写真が撮れなかった。
今回はリベンジを兼ねていたのだけれど予定していた寂光院まではたどり着けなかったことが心残りであった。たった半日だけの散策だったけれど、長年月の「引きこもり」で相当体力が低下していることを思い知らされた。
二つばかり気になったことがある。それは少し前に訪ねた嵯峨野や淡路島の田んぼでは、小鳥の囀りがうるさいほどだったのに、大原では小鳥の鳴き声がまったく記憶に残っていないことである。まさか「沈黙の春」ではないだろうと思うのだが…。
もう一つは、大原だけに限ったことではないけれど、減反政策の影響なのか、あるいは米の消費が減少しているせいか、棚田が減少していることである。年ごとに減少していく田んぼを見るのが わたしは悲しい…。
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