平家物語「大原御幸」の道をたどってみた ― 小野小町ゆかりの寺の巻



     祇園精舎の鐘の声、

     諸行無常の響きあり。

     娑羅双樹の花の色、

     盛者必衰の理をあらわす。

     おごれる人も久しからず、

     唯春の夜の夢のごとし。

     たけき者も遂にはほろびぬ、

     偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ…

       

「大原御幸」出立の朝 ー 写真左端が大原別所あたりか


近年、自分の関心として『平家物語』がある。以前読んだその物語の最後の方に「大原御幸」という章があり、それは「灌頂巻」のなかに入っているのだけど、後白河法皇が洛北市原ー静原ー大原寂光院まで お輿に乗って行ったようなのだ。いったいその道はどこなのだろう、と言う単なる興味本位で調査(推測!)してみたので、それをこれから何回かにわけて紹介してみようかな、などと思っているわけなのだ。

ついでにわたしの歩いた道、寄り道まで含めて美しい写真(笑)とともに見ていただきたいと虫のいいことを考えているわけ。琵琶法師の語る「物語」のことなので、内容に目くじら立てずにご笑覧くださいな(調査で藪の中を歩いていて二度ほどヤマヒルに脛を食いつかれ、出血が止まらず往生したこともあったので、この時期はご注意を)。



洛北市原-篠坂峠


清盛の次女徳子は、亡父の重なる悪行の報いとして招いた一門の没落をわが身をもって体験したのであった。壇ノ浦での源氏方との戦いに敗れ、わが子安徳天皇とともに入水をはかったが、源氏方の熊手に引き上げられて一命を取りとめる。あわれ安徳天皇は母を残して海の藻屑と消えたのであった。

時は過ぎ、徳子は母時子の遺言に従って、洛北大原の地に隠棲し先帝ら一門の菩提を弔っていた。そこへ後白河法皇が訪ねていくのだった。


かかりし程に、文治二年の春のころ、法皇建礼門院大原の閑居のお住まゐ御覧ぜまほしうおぼしめされけれ共、きさらぎ・やよひの程は、風はげしく、余寒もいまだつきせず、峰の白雪消えやらで、谷のつららもうちとけず。

春過ぎ、夏きたって、北まつり(葵祭)も過ぎしかば、法皇、夜をこめて、大原の奥へぞ御幸なる。



如意山補陀洛寺 通称「小町寺」ー 鞍馬街道に面する


鞍馬どをり(通り)の御幸なれば、彼の清原の深養父(ふかやぶ)が補陀洛寺、小野皇太后宮の旧跡を叡覧あって、それよりお輿にめさりけり。



小野皇太后宮の供養塔


この辺りは小野氏の所領だった所で、小野小町の父上が住んでいた所と伝わっている。小町は小野氏の出で小野篁の孫という説もあるようだ。小野氏は近江の国や山城の北方に勢力を持っていたようで、ここから近い上高野(小野郷)には小野神社や小野毛人(おののえみし)の墓がある。小町の墓は随心院など幾つかあるようだ。



小野小町供養塔


“ある人が市原野を通りかかったとき、一叢のススキの中から声がした。「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ(秋風の吹くたびに、ああ目が痛い)」と和歌の上の句を詠じているように聞こえるので、声の在りかを探すと、野ざらしの髑髏の目の穴から薄が生えでており、それが風になびくごとに人の声のように聞こえるのだった。その髑髏がこの地に下向して死んだ小野小町のものだと教わって哀れに思い、「小野とは言はじ薄生えけり」と下の句を付け、弔いをした。”
※ある人とは在原業平のことのようだ。この文は再掲載。




小野小町歌碑

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに








周辺から掘り出された石仏は八百体に上る




掘りだされた夥しい数の五輪塔


後白河法皇は補陀洛寺を出た後、(供の者十数名と警護の北面の武士など数十名がいたようだ)静原を通って大原寂光院に向った(たぶん)。


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ここで「小町寺の巻」を終えてしまうのでは間が持たないので、ついでだし市原の里を歩いてみよう。


愛宕大神

洛北には愛宕神社の石碑・常夜灯が数多ある。昔このあたりは愛宕(おたぎ)郡と呼んだようだし愛宕神社の氏子なのだろう。
写真に写っている石碑の上のステンレス製の祠は、神社で頂いたお札を納める「札入れ」と呼ぶようだ。また石碑の材は鞍馬で産出する その名も「鞍馬石」とは分かりやすい。よく玄関などで沓脱石として利用されているのがこの石(会津の女傑・新島八重さんの墓石もこれだった)。




市原野にわずかに残る田んぼ

写真右手の小ぶりな家は帰源寺という寺院で、本尊は平安時代作と伝わる十一面観音立像。左上山腹にあるモダンな建物はクリーンセンター。


以前は獣害を防ぐ柵などなかった…




農家風の立派なな建物

以前(四十年前)、写真に写るこの家は長屋門を備えた重厚な萱葺屋根の農家だったように記憶している。昔 この家の裏山には、江戸時代初期の儒学者 藤原惺窩の住んでいた市原山荘があった。


市原山荘跡の石碑

以前は石碑後方の山中に建てられていたが、住宅開発により児童公園に移された。




手もとに山荘に住む惺窩に関する文章があるので紹介したい。昔ある人物(城半左衛門朝茂)が幼い頃祖父(和泉の守)にしたがって惺窩の住む市原山荘をたずねた。

夏のことで、惺窩は柿染の単衣を着て、扇を手にして坐してゐた。和泉の守が来たと聞いて、侍童に柴の扉を開かせて、泉州よくこそまゐられた。孫をも連れて来られて、始めて逢ふのが喜ばしい、と聲をかける。和泉守は石の上に跪いて拝謝した。幼い朝茂も、同じやうに庭で辞儀をした。

こゝへ上がられよ、と惺窩が重ねていふ。和泉は朝茂を連れて上がった。惺窩先生は洛北の幽居に在って、甚だ貧しい生活をしてゐられた。お側にゐたのは下部が一人と、童が一人と、婢女が一人とに過ぎなかった。

※上の文は、森銑三氏の「藤原惺窩遺事」より引用。ちなみに惺窩は徳川家康公に経書の講義をしていたことがあり、そして藤原定家の子孫でもあるという。



市原山荘跡付近からの眺め(遠くに見える山は比叡山




真新しい朱の鳥居が目に眩しい」(岩稲荷大明神

市原山荘のちょっと上の山腹には小さな祠がある。近年建て直されたようだ。


愛宕灯籠と札入れ(町内安全を祈る)




叡電市原駅前にある愛宕灯籠と札入れ

愛宕灯籠前の道を左に行くと静原を通って大原へ抜けることができる。


静原への道


京都駅から北へ十キロ余り行くと貴船や鞍馬のちょっと手前に“市原野”という集落がある。かつては山間の農村地帯であったが、いつの間にか山は削られ、田んぼや畑は工場や住宅地と化してしまった。

平安の昔にはこの地は鳥辺野や化野、紫野などと同様に 人の亡骸を葬ったところのようだ。その証拠にあちこちから相当数の石仏が掘りだされている。かなり以前には「イ」の形をした送り火が灯されていたところでもある。
相当前のことだが、山中を歩いて火床の痕跡はないかとを探してはみたけど、見つかるのは石仏、石碑、それに茸ばかりであった。向山の山腹にあったのではないかと睨んでいるのだけどね。
※つづきます。


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