洛北二ノ瀬と「伊勢物語」を結びつけるって無茶ぶり?

 

小野小町が晩年を過ごしたと伝わる市原の里を後にして、次に向った先は貴船の少し手前にある二ノ瀬の里である。ここは“悲運の親王”として名高い(?)文徳天皇第一皇子の惟喬親王を祀っている神社のあるところなのだ。いつもなら叡山電鉄に乗り、二ノ瀬駅で降りて付近を周遊するのだけど、この時はまだ市原 ー 鞍馬間が不通(令和三年九月十八日運転再開)だったので歩いて行った。市原の北隣なので歩いても三十分ほどだろうか。

 

f:id:sasurai1:20210913154234j:plain

途中には旧家らしき家がある

 

 

f:id:sasurai1:20210913154324j:plain

二ノ瀬集落全景(二ノ瀬駅より)

鞍馬街道から外れて、少し西に向って歩くと山際に二ノ瀬駅無人駅)がある。二ノ瀬集落が見渡せる位置にあるので、新緑と紅葉の時期には人気のある駅だ(ついでだし立ち寄ってみた)。向い側の山は近年の台風の爪痕のようで、北山杉が倒れた跡があり山の地肌がむき出しになっている。写真下部の方には、集落を東西に分断するように鞍馬川(鴨川の上流)が流れている。

 

f:id:sasurai1:20210913154247j:plain

叡電二ノ瀬駅貴船口方面を望む)

 

 

f:id:sasurai1:20210913154358j:plain

駅から集落へ降りる道

 

 

f:id:sasurai1:20210913154410j:plain

二ノ瀬大橋に出る

橋を渡り、上流側の左手方向に向って歩く(真っすぐ行くと鞍馬街道に出る)。

 

f:id:sasurai1:20210913154442j:plain

鞍馬川

一つ目の橋を右岸に渡る。鞍馬川は上流にある貴船口駅付近で貴船川と合流している。右岸には登り坂の道があり、その両側には数軒の民家が建ち並んでいる。



chikusai2.hatenablog.com

 

 

f:id:sasurai1:20210913154507j:plain

夜泣き峠への道

小川に沿って真っすぐゆくとこんな所にでた。生活道路だが途中に踏切もあり面白い道だ。紅葉の季節には、さぞ見事な色のモミジを見ることができるだろう。ここで出会ったご婦人に、今日の目的地の守谷神社・冨士神社の場所を訊ねたところ、もう一つ北の踏切の場所だと聞く。三十年振りの訪問なので道を間違えてしまったようだ。来た道を少しだけ戻る。

 

 

f:id:sasurai1:20210913154525j:plain

守谷神社・冨士神社が見えてきた

 

 

f:id:sasurai1:20210913154536j:plain

守谷神社・冨士神社

近年の台風で神木など周辺の杉や鳥居が被害を被った。まだ修復途中のようで、神社の周りは明るくなったが、記憶にある静謐な感じが無くなってしまったような気がする。

 

f:id:sasurai1:20210913154549j:plain

本殿(覆屋)


中央で守谷神社(東)と冨士神社(西)に分かれている。伝え聞くところによると平安時代の創建とされる古社なのだとか。守谷神社は惟喬(これたか)親王を冨士神社は紀静子(惟喬親王の生母)を祀っている。二ノ瀬の里との関係は、惟喬親王が二ノ瀬に仮住まいしていたことで村人との親交があったことによるらしい。

 

 

f:id:sasurai1:20210913154702j:plain

冨士神社本殿(西側・紀静子を祀る)


惟喬親王の母の姓は「紀」であったことによるものなのか、惟喬親王文徳天皇の第一皇子でありながら「藤原」姓の女御の御子である第四皇子(惟仁親王、後の清和天皇)に皇位を譲ることになった悲運の親王として語り継がれている。

貞観十年(868)清和天皇と藤原高子女御との間に貞明親王誕生、この皇子が二歳で皇太子となり惟喬親王皇位継承の望みは二十六歳の春についえ去った。そして二十九歳で出家し小野の里(大原)に遁世し、五十四歳で亡くなった。それまでの間に洛北二ノ瀬、雲ケ畑、近江の国などを転々としていたようだ。



f:id:sasurai1:20210913154613j:plain

守谷神社本殿(東側・惟喬親王を祀る)


貴船山登山道は恋路の道?
三十年前にもここを訪れていると最初に書いた。けれどどなたを祀っていたのか とんと覚えがなく、今年の初夏の頃に大原へ惟喬親王の墓参りに行ったことにより、親王のことを調べてみたら二ノ瀬に守谷神社があるということを知ったのだった。いく度か貴船山に登った際、神社の前が登山道にもなっているので、一度だけ立ち寄ったことがあったのだ。当時は古典にも「伊勢物語」にも大して興味がなかったので、記憶に残っていなかったということだろう。

源氏物語」の作者・紫式部と同じ彰子様に仕えた恋多き女 和泉式部貴船神社にお参りする際、きっと守谷神社と冨士神社にも立寄っていたに違いない(?)。

次いでだから言うけど、四十年前には神社の前の道を通って、夜泣き峠からガールフレンドと貴船山に登ったことがある。巻道との合流地点の展望台から眺めた鞍馬山の眺めは良かった。だけど彼女とはうまくいかなかったので、わたしにはこの道は悲恋の道かもしんない。夜泣峠から登ったのが失敗だったかも(泣き)。

さて(切替えが早い)惟喬親王在原業平、そして在原業平の作とも モデルにしているとも言われる「伊勢物語」、さらに「土佐日記」の作者・紀貫之とはどのような関係にあるのだろうか。調べてみると結構奥深いものがある。

 

 

f:id:sasurai1:20210913154720j:plain

拝殿(絵馬堂)

炉が切ってあるのが珍しい。ここで寄り合うことがあるのだろう。

 

f:id:sasurai1:20210913154733j:plain

神社を後にする


伊勢物語』 君や来し

 昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝(あした)には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

 二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨(ねや)近くありければ、女人をしづめて、子(ね)ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。 男いとかなしくて寝ずなりにけり。
 つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

  君や来し我や行きけむおもほえず夢か現かねてかさめてか

昨夜あなたがいらっしゃったのか、私がうかがったのか、はっきり覚えていません。夢でしょうか、本当のことでしょうか。さあどちら?

男いといたう泣きてよめる、

  かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとはこよひさだめよ

夕べのことは夢か現実のことなのか分からずに取り乱してしまいました。今夜いらしてはっきり決めてください

とよみてやりて狩に出でぬ。……以下略



この段落では、勅使を在原業平斎宮文徳天皇と紀静子との間の皇女 恬子(やすこ)内親王をモデルとしているようだ。

  

 

f:id:sasurai1:20210913154745j:plain

帰り道

 

chikusai2.hatenablog.com

 

 

f:id:sasurai1:20210913154758j:plain

すぐに鞍馬街道に出る

 

 

f:id:sasurai1:20210913154812j:plain

鞍馬街道京都市内の方角を望む)



伊勢物語』 草ひき結ぶ

 昔、水無瀬(大阪府みなせ)にかよひ給ひし惟喬の親王、例の狩しにおはします供に、右馬の頭(うまのかみ)なる翁つかうまつれり。日ごろ経て宮にかへり給うけり。御おくりしてとくいなむと思ふに、大御酒たまひ、禄たまはむとてつかはさざりけり。この馬の頭 心もとながりて、

  枕とて草ひき結ぶこともせじ秋の夜とだにたのまれなくに

とよみける、時はやよひのつごもりなりけり。親王おほとのごもらであかし給うてけり。
 かくしつつまうでつかうまつりけるを、思ひのほかに御髪おろし給うてけり。む月にをがみたてまつらむとて小野(大原の里)にまうでたるに、比叡の山の麓なれば雪いと高し。しひて御室にまうでてをがみたてまつるに、つれづれといと物がなしくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、公事どもありければ、えさぶらはで夕暮にかへるとて、

  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきやゆきふみわけて君を見むとは

となむなくなくきにける。



〈現代語訳〉
 昔、水無瀬の離宮にしょっちゅう都から行っていらっしゃった惟喬親王が、いつものように鷹狩をしにおいでになる供に、馬寮の長官である老人(在原業平)が奉仕もうし上げた。何日か日をすごして親王は都の宮の御殿におかえりになった。馬の頭は御殿までお見送りして早く自分の邸にかえろうと思うのに、御酒を下さり、狩りのお供と御殿までのお見送りのごほうびとしての賜り物を下さろうというので、お帰しにならなかった。このお見送りして来た馬の頭は早く帰宅のお許しをいただきたく待ち遠しがって、

 今夜は、旅先で仮寝をするために草枕をつくるというので草を結ぶこともするつもりはありません。今は晩春の短夜で、長い秋の夜とさえもたのみにできないはかない一夜なのですから

と詠んだ。時節は陰暦三月の末であったのだ。親王は寝所におはいりにならないで、ともに徹夜をしてしまわれた。
 いつもこのようにしたしく参上してお仕え申し上げていたのに、まったく思いがけず御剃髪遊ばしてしまったのだった。

 正月に拝礼申し上げようと思って小野(大原の里)に参上したところ、小野は比叡山のふもとなので雪がたいそう高くつもっている。一生懸命困難をおして親王の僧坊に参上して拝礼申し上げると、親王は(正月というのに)なさることとてもなく心さびしくなんとなくすべて悲しいご様子でいらっしゃたので、かなり長い時間おそばに伺候していて昔のことなど思い出しておはなしを申し上げた。そのようにしてでもおそばにお仕えしていたいなあと、せつに思うけれど、宮中の公式の行事などがあったので(小野の里の宮の僧坊に)伺候していることができないで、夕暮れに都へかえるというので、

 現実の事態をふっと忘れると、今のことを私は夢かと思います。だれ一人訪れる人の足跡もない山里の深い雪をふみわけて、こんなわび住まいをしていらっしゃる御前様にお目にかかろうとは、かつての昔の日 思ったでしょうか。そんなことはまったく思ってもみなかったことでございます。

といって泣きながら都に帰って来たのだった。

※『伊勢物語講談社学術文庫版 現代語訳:阿部俊子

 



伊勢物語』 草ひき結ぶ の舞台となっている大原の里はここです
sasurai1.hatenablog.com

 

chikusai.exblog.jp

 

 

守谷神社・冨士神社へのアクセス
叡電出町柳駅から鞍馬行:「二ノ瀬駅」下車徒歩7分
市営地下鉄国際会館駅前:京都バスで貴船・鞍馬行きに乗り「二ノ瀬」下車徒歩七分