昔、ある男が病気になって、気分がわるく死んでしまいそうに感じたので(こうよんだ)、
死というものは人間 最後には行く道であるとは前々からきいていたが、それはずっと先のことで、きのう今日というさしせまったこととは思わなかったのに、気づいた時はもう今の問題だったのだなあ。
【原 文】
昔、男わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねてききしかど昨日今日とは思はざりしを
この歌は『伊勢物語』最終段に記載されている。「昔、男 初冠(ういかぶり)して、平城の京春日の里に……」で 元服まもない在原業平の物語は始まったのだけれど、いよいよ終ることになってしまった。最期の時が近づいたことを、業平の気持ちを率直にうたったのだろう。
『伊勢物語』の 現代語訳を成した 阿部俊子は、この歌の解釈を、
「自らの身の上に終焉を感じたときの〈ああ意外に早くとうとう〉
という率直な嘆声とみたい。
初冠で若々しく はじまった男の多彩な、人間らしく、才気ある、
みやびな姿は、しだいに年を重ね、ついに消えて行く。
すぎ去ってしまえばあっけないのが人生であろう。」
と述べている。うーむ 今のご時世 考えさせられるなあ。
吉田兼好やモンテーニュの死生観も東西の違い(仏教とキリスト教の違い)はあるけれど、意外と似通っていて面白い。女性の作家で、兼好や長明やモンテーニュのような死生観、人生観を書いた人をわたしは知らない(たまたま知らないだけかも)。