京都大原 里の駅から三千院 そして勝林院への道を歩く


ここの所、天候が良いので毎日のように遠出をしている。久しぶりに大原あたりを散策
してくるわと連れに言うと、それなら私も行くという。「里の駅」で平飼いの鶏卵を買
いたいのだという。そして一年振りに二人で出かけることになった。当然 わたしが、荷
物担当である。

まずは「野村別れ」で京都バスを降り、「里の駅」に向った。しかしまだ午前10時だと
いうのに、すでに卵は完売であった。仕方がないので少々値が張るけど名古屋コーチン
の卵を買った。それに新鮮な野菜なども買った。それだけでリュックは一杯になってし
まった。

次に三千院への道(車道)を歩いていくことになった。少し距離はあるが、新しい発見
があるかも知れないし。


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道の駅から三千院の方角を望む

 

 

 

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茅葺屋根の家

 

 三千院のある大原は、京都市内であっても気候は町なかとは違っている。
気温について言えば市中より二、三度は低いのではないだろうか。冬な
どは町なかは積雪がなくても、大原は十センチ以上積もっていることが
しばしばである。
大原には、嬉しいことにまだまだ田畑が残っており、のどかな田舎の雰
囲気を味わうことができるのだ。田畑や民家に囲まれた曲がりくねった
細い道を歩いていくと、路傍には石仏があったり、野の花が咲いていた
りして実に味わい深い。藪の中に遺跡が隠れていたりして、意外な発見
をすることもある。
そんな大原に、日常の煩わしい生活を忘れ、わたしは年に一二度訪れる。

 

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大原三千院への道

 

 

 

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川沿いの狭い道だ

 

 

 

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元は旅館だったCafe

 

 

 

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三千院に近づいてきたようだ

 

 

 

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石段を上ると三千院門跡

30分ほど歩くと そこはもう喧騒の三千院門前である。なかなかうまい具合に写真が
撮れないのだ。

 

 

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門前は賑やかだ

 

 

 

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振り返ると紅葉がきれいだ

いまが紅葉のピークなのだろうか、モミジの色がきれいだ。

 

 

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律川に掛かる橋

 

 

 

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橋の西詰に熊谷直実「鉈すての藪跡」がある

 

 

 

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自撮りに人気のある所だ

 

 

 

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勝林院(手前側)への石段

 

 

 

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勝林院

法然上人の「大原問答」で有名になった寺だが、近年建物の老朽化が
進んでいる。宝物の点検調査も進んでおり、新しい発見があるという。


ここで長々と法然の話をすることをご容赦ねがいたい。
浄土宗をおこした法然は、青春時代を比叡山で過ごした。かつては世を
いとうて山に入ったのであるが、今度は「世をいとうて山をいづる」の
である。およそ法然ほどあらゆる階級、あらゆる種類の人々に貴賤貧富
を問わず一心に念仏往生を説いたものはいなかった。「法然は一生無位
無官で、質素な草庵に住み、墨染めの衣をまとい、輿に乗らず、金剛草
履を履いて歩いた。」貴顕との結縁もあり、そのことが、後に比叡山
僧などから疎まれ、親鸞などの門弟とともに災難を被った原因にもなっ
た違いない。

大原問答とは?
前置きが長くなったが、世に名高い“大原問答”のことを話そう。
これは天台座主顕真僧正が法然に念仏往生の要義を問うたことから始ま
った。「当日集まった顔ぶれを見れば、山門(比叡山)からは顕真大僧
正の外に…碩学三十余人、南都の学生二十余人、高野の明遍僧都、栂尾
明恵上人……ら三百余人…法星一堂に集まるという光景であったとい
われる。」

法然の方でも弟子たちが事態を憂慮して、三十余名の弟子を引き連れて
立ち会った。容易ならぬ風雲が、静かな大原の地に漂ったという。ここ
に遅れて登場したのが、平家のわずか十五歳と伝わる平敦盛を打ち取っ
熊谷直実(世の敦盛ファンからさぞ憎まれていることだろう)である。
鉈を隠し持ち勝林院にはせ参じた。

「しかしこの問答の席はかなり宗教家や、学者たちの集まりに相応しく
、公明に、進行したらしい。それも法然の言う所が条理が立っていて、
一々聖教に典拠がなくては主張しない。私の、勝手な説ではなくて、経
文に依り所があって、それを引証する。そうしてそうなれば博学なだけ
に博引豊証である。たいていの学者には歯が立たない。」けして他宗を
誹謗せず謙遜な態度であったと言われる。

問答が進むにつれ「結果はかえって浄土門の信仰の広大なことと、時代
と機とに一層適合していることを一座および聴衆たちに認めさせるよう
なことになってしまった。…法然の信仰の確実で、情熱があるのと、そ
の人物、学問が図抜けて立ち勝っていることが露骨になってくるので、
次第次第に法然が皆に法を説いているような貌(かたち)になったらし
い。そしてついに一種の法悦のような空気が一座に生じてしまって、顕
僧都自ら念仏を唱えて焼香し、皆々がそれに倣って、念仏焼香し、唱
名の声が一堂を揺がすというような結果になって、この宗教会議は事実
法然の勝ちに帰し、諸宗派が浄土宗という新しい一宗派を承認したと
いうことを世間に公布する機会となってしまった。

法然自らはこの時のことを後日門弟に話して、
“議論においては互角であったけれど、根気において自分の勝ちに帰した
のだ”と言った。それで見ても、法戦がかなり激しいものであったことが
想像される。」という逸話がある。

なお、熊谷直実が用の無くなった鉈を捨てたと伝わる“鉈捨て藪跡”の碑が、
律川のたもとに建っている。謂れをしらなければ見過ごしてしまいそうな
碑である。
※引用は倉田百三著『法然親鸞の信仰』より

 

 

 

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勝林院庭園を側面より撮影


大原の土地は、わたしの生まれ育った南東北の気候ともよく似ている。
そんなこともあり好んで訪れている。気分がのれば宝ヶ池から二時間
ちょっとかけて歩き、名物のしば漬を買って帰ることもある。ここで
買う茄子のしば漬けは、町なかで手に入るものとは少し違うのだ。乳
酸菌たっぷりでとても酸っぱいのだけれど美味しい。同じく上賀茂の
スグキ漬けも酸っぱいけれどお酒に合い美味しい。ちょうどワインと
チーズの関係(?)と同じで、お酒とスグキ・しば漬けの相性はとて
も良いのだ。

後編は寂光院への道へ続きます。

 

 

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