河上肇と櫛田民蔵と法然院と


京都大学の学生たちと芥川賞作家の話をする
だいぶ以前のことだけれど、京大生数人と百万遍のとある居酒屋で一杯やったことがある。現役の京大生が芥川賞を受賞したころだ。カメラの話などをして小説のことや随筆の話などにいたった。

そして京大の先生だった方で印象に残る小説、あるいは随筆を書いた人は誰かという話になった。学生たちがどんな話をしたか覚えてはいないが、わたしは小説と随筆は露伴(一年間だけ教師をしている)、随筆と漢詩なら河上肇を推した。学生の反応はといえば露伴の名は聞いたことがあるが、河上肇は知らないという。

工学部と農学部の学生なので京大の経済学博士の名は知らなくても不思議ではないのかも知れない。それも戦前の学者なのだから(ちなみに西田幾多郎氏や新渡戸稲造氏の名と業績は知っていて こちらが教えられた)。



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法然院山門を境内より望む


大掃除をしていて古書を引っ張り出す
話はかわって、先日納戸を大掃除(実に十年振り)していたら段ボール箱に詰め込んである古本の中に大内兵衛氏(この人も経済学者)の『高い山ー人物アルバム』という本があった(大内氏もけっこう随筆の上手い学者だ)。四十年以上前に購入した古本である。たぶん一部は読んではいるはずだが、処分せずにまだ持っていたのだ。掃除の方はほったらかしにして その本を読みだしてしまった。

 

 

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その本の内容はといえば、経済学者である河上肇氏や櫛田民蔵氏の奇癖のこと。大原孫三郎氏と岩波茂雄氏の業績、そして宮本百合子氏と夫君宮本顕治氏が牢獄に入っている時の手紙のやり取りのことなどが書かれてあった。なかでも印象に残っているのは河上肇氏(以降敬称は省略します)とその弟子のような存在である櫛田民蔵が師匠を批判するところだ。批判された河上はそれに応えて猛勉強をするという具合だ。

櫛田民蔵が面白い人、猛勉強家だということは、同時代を生きた経済学者から直接聞いて知ってはいたが、大内の随筆を読んで再度確認した次第だ。ある日櫛田は同僚の家を訪ね経済学上の疑問をぶつけたというのだ。その時に手土産に渡した羊羹を議論しながら一本ペロッと食べてしまったというではないか。甘党のわたしも美術の話を友人としていて同じことをした覚えがある。今回の収穫は、櫛田はわたしと同郷だったということ(だからどうしたって?)。で よりいっそう親近感が増したのだ。

櫛田は相当変った人で、論文を書く時は食事もトイレ(おまるを持ち込むみたいだ)も書斎でする。書き上げるまで一歩も部屋から出ない、という人だったらしく最後(最期!)には論文の締切がせまっていたので徹夜に徹夜を重ねてクモ膜下出血で書斎で倒れてしまったという。今ではほとんど無名の櫛田だが、朝日ジャーナルでは「この百年における日本の思想家」として推薦したとかしなかったとか?
櫛田の著作集としては『櫛田民蔵』全集(全五巻)が改造社より出版されている。

 

 

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前置きが長くなってしまった。…そうだ河上肇のことだった。
河上肇は周防岩国の産、藩士の出だというし河上の先生は吉田松陰だったという。
「その志の高さとその情感のはげしさにおいて博士は郷里のこの大先輩に似ており、少なくとも博士がこの人に私淑したのを疑わない。」と大内はいう。

学生時代の河上は変り者であった、学校のことはあまり勉強しなかったから成績は優等ではなかったと同級生の話として伝わっている。しかしいい点はとらなかったが勉強はしていたようで、大学院の院生のときには自費で『経済学上の根本観念』という本を自費出版していたというからなかなかのものだ(わたしが言うのもあれだけど^^)。


自伝にも書いてあったと思うのだけど、足尾銅山鉱毒事件の報告会が神田であり、木下尚江が熱弁をふるって聴衆に争議の資金を募った。「そして会が終えて受付のところまできてみると、木下は一人の大学生が[自分は金を持ちあわせていないからこれをおいて行く]といって制帽と制服とをすてて行った」金ならともかく制服では困ってしまい、後日大学生を探し当て返却したそうである。その大学生が河上だった。そんな逸話からも分かるように河上は亡くなるまで直情的な性格だったようだ。

そんな話が河上肇自叙伝』岩波文庫全五冊には盛沢山だった。自叙伝の傑作としておすすめします。


 

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河上肇先生と夫人の墓

 

河上肇博士の墓碑と歌碑が、去る(昭和三十一年)一月二十九日、京都鹿ヶ谷法然院の山かげに建った。先生逝いてまさに十年、その波乱に富んだ一生もいよいよとじられた。これで先生も歴史上の人物となったわけである。” ( 大内兵衛


 たどりつきふりかへりみれば山川をこえては越えて来つるものかな(歌碑のうた)



※『高い山ー人物アルバム』を読み、法然院を訪ね 河上肇博士の墓前に参ろう
    と思った次第の巻、でした。

 

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