京都大原の里に寂光院を訪ね『平家物語』を聴く

 

平家物語』ゆかりの寂光院

京都大原といえば、まず誰しもが頭に思い浮かべるのは三千院では

ないだろうか。三千院の名は、おそらく永六輔さん作詞の「女ひとり」

を聴いていて覚えている方が多いと思う。

 

その大原だが、三千院の次に訪ねてみたい寺院といえば寂光院の名を

あげるだろう。ところが寂光院三千院の北の方角、高野川を挟んで

の山間にある。少しばかり離れているのだが、こちらの方が大原の里

の雰囲気がまだまだ残っているのだ。

過ぎ去った年の五月、わたしは『平家物語』の最後、「大原御幸」

女院出家の場面で名高い寂光院を訪ねた。

 

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高野川

 

 

京都バスの終点大原でバスを降り、平家物語ゆかりの寂光院へ向って北の方

角へ歩く。狭い道を進むとすぐに高野川にかかる橋に出て、清流を望むこと

ができる。都会から離れたこのあたりなら、夏の夜は涼しげなカジカガエル

の鳴き声を聴くことができるだろう。蛍の優雅に舞う姿を見ることもできる

に違いない。

 

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寂光院への道



 

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 中央に見える山が比叡山であるが、この位置から見ると低い山に見える。

 

 

 

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まだまだ田畑は残っているが、年々少なくなっている。

 

 

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朧の清水

 建礼門院の悲しい逸話が伝わる おぼろの清水。おぼろ月夜に、水面に

映るやつれた姿を見て身の上を嘆いたという。

 

 

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眼下には、田植えを終えたばかりの田んぼが見える。

 

 

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大原田園風景

右手の山の中腹に目指す寂光院がある。

 

 

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路傍には大原菊が咲いていた


  

大原・寂光院への道

平安の昔、木々のこずえがとりどりに色づいてきた季節に、建礼門院一行は

寂光院を目ざし、 都から歩かれたのだろう。日は短く、夕暮れにようやく

寂光院に たどり着いたに違いない。


今でこそ東海道の西の起点である三条大橋からバスで四十分ほどで行けるが、

平安の貴人の足では、ぬかるんだ山あいの道を都から一日を掛けて歩いたの

ではないだろうか。道路事情の良くなった現代でも、私の足では片道四時間

はかかる。

それから考えると、“大原女“ は毎日のように、頭の上に柴や炭などを乗せて

都との間を往復していた のであるから、相当つらい仕事であったことと思う。

 

 

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寂光院入口

 

 

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寂光院参道

秋には見事な紅葉を見ることができる、モミジの参道。

 

  

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1990年ころの参道(モノクロームで撮影)



 

 

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寂光院山門



 

 

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寂光院本堂

 桃山時代の建築様式を残す造りという。屋根はこけら葺き。

 

 

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焼失前の本堂

 
大原寂光院は、聖徳太子の創建で建礼門院が隠棲し 晩年を過ごされた

天台宗の尼寺。平成十二年(2000)に火災により本堂が焼失。本尊の

地蔵菩薩も大きく焼損したが、五年後には復興再建された。

 

 

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山門(本堂側より)

 

 

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雪見燈籠は豊臣秀頼が奉納したものと伝える

 

 

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茶室「弧雲」の門

 

 終の棲家はいずこに?

建礼門院は、東山の麓、吉田のあたりへおはいりになられた。そこは中納言

法印慶恵という奈良法師の坊であった。

住み荒らして年久しくなったので、庭は草深く、軒には忍草が茂っていた。簾

はきれて閨(ねや)もあらわに見え、雨風の防ぎようもない。花はとりどりに

咲いているが、主とたのむ人もなく、月は夜ごとにさしこむが、ながめてあか

す主もない。 都に近いこのお住居は、行き来の人々の目にもふれがちなので、

露の御命を吹きちらす風をまつばかりの わずかな間ばかりでも、憂きことを聞

かずにすむ深山の奥へ隠れたいと思うが、さて どこにもたよるべきところがな

い。


すると、ある女房が、吉田に来て、

「これより北、大原山の奥に、寂光院と申す静かな所がござります」

と教えたので女院は、

「山里はものさびしいにちがいはないが、都に近くいて憂きことを聞くよりは、

まだしも住みよくありましょう」

とお思い立ちあそばされた。・・・文治元年〔1185〕九月の末に、かの寂光院

おはいりになった。

※『平家物語』より

  

 

 

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奈良法師の坊はどこにある?

「奈良法師の坊であった」という寺はどこにあったのだろうか。「東山のふもと」

と「吉田のあたり」というヒントが出ている。しかし東山といえば北は如意が岳か

ら、南は伏見稲荷の山まで三十六峰七里を越える範囲と長い。吉田といえば吉田山

が真っ先に頭に思い浮かぶが離れているではないか。 いったいどこであろう、と

考え早く答を出したく急ぎ寂光院へ向かったのである。


寺へ着いたはよいが相変わらずの混雑、百名ばかりの団体さんが蝗のごとく押しか

け、そして稲穂を食い尽くすがごとく去って行った。

たまたま外に居られた院主さまと挨拶を交わし、傍らにいた作務衣姿の若き尼僧と

思しき方に『平家物語女院出家の場面にある寺は何処に、と尋ねれば「・・・かしこ

に今でもありまする」と、平安貴人のようにのたまう。もしや阿波内侍(あわのな

いし)の生まれ変わりではないかと訝しく思っていたところ、院主さまとともに去

って行かれた。

 

意外であった。物語であるし、内心は架空の寺ではないかと思っていたからである。

訪ねたこともない、名も知らない寺であった。そこは近くて遠い所であった。

後日、円山公園の東の山麓にあるというその寺(長楽寺)を訪ねたが、何と

「休館日」であった。……いまだに再訪は適っていない。

 

 

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奥に建礼門院御庵室遺跡が見える

 

 

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御庵室遺蹟


 


平家物語』最後の場面 「大原御幸」万感に袖をしぼる

明けて文治二年(1186)の春はじめ、後白河法皇は一度、建礼門院の大原

の閑居をごらんになりたいと思いたたれた。・・・・・・

 

やがて春が過ぎ、夏が来て賀茂の祭りもすぎたので、、法皇は夜の明けやら

ぬうちに、大原の奥へ御幸あそばされた。・・・・・・

 

遠山にかかる白雲は、散った花の形見であり、青葉になったこずえには、春

のなごりが惜しまれる。季節は四月(うづき)二十日すぎのことなので、お

い茂る夏草の中をかきわけて行かねばならぬ上に、初めての御幸のこととて

お見慣れになった景色もなく、まるで人跡絶えた跡をたどるかのようであっ

た。西の山のふもとに一棟の御堂が建っていたが、これが目当ての寂光院

ある。

 

女院の庵室をごらんになると、軒には蔦や朝顔がはいかかり、忍草にまじっ

て萱草がおい茂っている。・・・・・・

杉の葺目もまばらであるから、時雨も霜も、置く露も、漏る月影とあらそっ

て、防ぎようもなさそうなありさま。・・・・・・

 

・・・そのそばは、女院の御寝所と見え、竹の竿に麻の御衣、紙の御寝具など

がかけられ、本朝漢土の粋を集めた、繚乱錦繡の御衣装も、今は昔の夢と消

え果ててしまっている。あまりの労しい変わりざまに法皇が御涙を流される

と、お供人々もいまさらのように、以前宮中で過された女院の御日常を思い

出して、万感に袖をしぼった。

※『平家物語』より

 

  


それにしても建礼門院さまは、壇ノ浦合戦でともに安徳天皇と入水を図り、

そして自らの命だけは助かり、お子である安徳天皇を失った。そして源氏

に敗れた結果が二十九歳での出家という道をたどり、その数年後には早く

も人生を終えてしまった。

なんと “露のように儚い“ いのちであることか。 それにつけても『平家物語

冒頭が思い出される。

 


     祇園精舎の鐘の声、

     諸行無常の響きあり。

     娑羅双樹の花の色、

     盛者必衰の理をあらわす。

     おごれる人も久しからず、

     唯春の夜の夢のごとし。

     たけき者も遂にはほろびぬ、

     偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

 

 

 

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大原西陵入口

寂光院のすぐ東隣には、建礼門院さまの眠る大原西稜がある。

 

 

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大原西陵参道

 

 

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大原西陵

 寂光院の東の背後の高台に、建礼門院徳子の墓所と伝えられる大原西陵がある。

 

 

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翠黛山

 寂光院の西方、翠黛山には阿波内侍ら建礼門院の侍従たちのものと伝わる墓石がある。

 

 

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建礼門院侍従の墓所入口

 草生川にかかる橋を渡ると、阿波内侍・大納言佐局・治部卿局・右京大夫

小侍従局ら建礼門院の侍女たちの眠る墓地がある。

 

 

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墓所参道


 

 

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阿波の内侍らの墓所

 

 

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侍従たちの名を記した石柱

 

 

 

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墓所を山側より見る

 一番左側が阿波内侍の墓と思われるが判然としない。

 

撮影を続けていると、後ろの山の方から、それもそう遠くはない所から、

篠笛のようなピーッという獣の鳴き声がひと鳴き聞こえてきた。

どこかもの悲しくもあり、懐かしい感じもする鳴き声である。そう思わ

せる鳴き声なのが不思議である。声の主である獣を記憶の糸をたぐって

みると、ようやく思い出すことができた。

それは鹿の鳴き声(警戒音)であった。

 


夕方、庭に散りしく楢の葉をふみしだく音が聞こえたので、女院は、

「世をかくれている者のところへ、何びとがたずねてきたのか、会うて

ならぬ者ならば、隠れます。佐の局、見てきてくだされ」

局が行ってみると、小鹿が通る足音であった。

 

※『平家物語』(中山義秀 現代語訳)より引用。余談ながら、中山義秀氏と私は同じ在所の生れである。

写真撮影年:2017年5月

 

 

 


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