唐招提寺への道
近鉄西ノ京駅で下車し、南に薬師寺の三重塔を見て北へ十分ほど歩くと
唐招提寺の森が見えてくる。奈良時代にはこの辺りは西ノ京といって高級
役人が住むところであった。
唐招提寺へ向う道すじには、薬師寺の末寺と覚しき寺院や農家の立派な造
りの家が建ち並んでいて見飽きない。東の方角を望めば、田植えを終えた
田んぼ越しに若草山がかすんで見える。京都とは違って、まだまだ田畑が
残っているのが嬉しい。
金堂(国宝・奈良時代)
寄棟造・本瓦葺(八世紀後半の建造)
唐招提寺の美しさとは
「・・・唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置
のかもし出す整然たる調和の美しさであって、私はそれをみたいためにやっ
てくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ完璧な姿で残っていると云っ
てもよかろう。」
「唐招提寺の金堂を訪れた人は、だれしもその見事な円柱に心をとめるであ
ろう。円柱が全姿をあらわに並列しているのは、大和古寺のなかでもこの寺
以外にはない。」
※亀井勝一郎著『大和古寺風物詩』
多くの著名人が唐招提寺を訪れ、その感想を印象的な文で残している。
和辻哲郎、堀 辰雄のお二方とともに忘れてはならない人は亀井勝一郎
である。
奈良を訪れるに際し、ガイドブックを一つ上げるなら亀井の
『大和古寺風物詩』を推薦したい。
金堂仏像
堂内中央にご本尊の盧舎那仏座像、左右に千手観音、薬師如来の大きな立像
(いずれも国宝)。これらをめぐって梵天、帝釈天、四天王立像が安置され
ている。巨大な仏像が、奥行きのない窮屈なお堂に押し込められているとい
う感じが 否めない。お参りもそこそこに、建築に意匠に目を移そう。
金堂は奈良時代の大寺の金堂の形式を伝える唯一の遺構といわれるが、
唐招提寺の屋根は少々重たげで厳つい感じがする。奈良時代にはゆる
やかな曲線を持つ寄棟造りであった。それが江戸時代になり、修繕の
際に棟の高さを上げたため今の姿になったのだという。
講 堂
鼓 楼
礼 堂
東室・礼堂
宝蔵・経蔵
宝 蔵
経 蔵
現存最古の校倉
経蔵は、この地が唐招提寺になる前、新田部親王の邸宅であったと
きすでに米倉として使用されていたと伝わる。なんと正倉院より古
く、現存最古の校倉ということになり驚きである。千三百年を経た
木の重厚感がひしひしと伝わってくる。
校木の断面は、よく見ると大きく面取りされているので、三角形と
いうよりは六角形である。強度の点でも密閉度の点でも万全である。
唐招提寺を訪れる楽しみ
唐招提寺を訪れる楽しみは二つある。ひとつは、南大門をくぐると優しく
出迎えてくれる天平の甍の覆いをかぶった金堂である。いくど見ても新鮮
なおどろきがある上、八本の円柱は思わず掌で撫でたくなるほど懐かしい
感じがする。
ふたつ目は、校倉である。天平時代の校倉があるというだけで貴重である
が、それが二棟残っているというのであるから驚くほかない。残念なこと
に校倉に触れることはできない。近寄りがたい雰囲気はあるがどこから見
ても絵になるのは嬉しい。
金堂ばかりが脚光をあびるけれど、黒漆塗りの宝石箱のような校倉造りの
宝蔵・経蔵がたまらなく愛しい。1300年前の木材が今なお息づいているの
であるから。
唐招提寺を訪れるのは今回が二度目であった。一度目は六七年前、年の暮
れも迫る寒い日であったように思う。長年の願いが適い、南大門を入ると
金堂が優しく迎えてくれたように感じたものである。
戒 壇
光明のなかの唐招提寺
「道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい
橋の手前で俥を下りた。樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなく
さわやかな気分を誘い出す。道の右手には破れかかった築地があった。な
かをのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っている。
もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射
し込んで来る。その明るい所に唐招提寺があった」
※和辻哲郎著『古寺巡礼』より
大正七年五月、唐招提寺を訪れた和辻は上のように述べている。文面から
推測すると、秋篠川に掛る橋をわたり東門から境内に入ったようである。
上の写真はその情景の場所であるが、当時はもっと荒れた感じがあったの
ではないだろうか。
鑑真和上廟入口
入口より御廟を望む
正面突き当たりに御廟がある。
鑑真和上御廟
北東側より撮影する。
苔むした御廟前の庭園が目にやさしく映る。
鑑真和上が日本に与えた影響
鑑真和上がこの地を下賜された当時は、「唐律招提」と名付けられ、私寺として
唐の戒律を教える学問所のような性格を持っていたようである。金堂も未だなく、
講堂のみが道場であることを窺い知ることが出来たのではないだろうか。鑑真和
上が入寂されるまでには、金堂は建立されていなかったという。
鑑真和上亡き後に弟子たちが唐招提寺の伽藍の充実に尽力し、金堂、鐘楼などを
次々に整備し、官寺へ発展させたようだ。現在は戒律を伝える宗派「律宗」の総
本山である。
鑑真和上とその一行が我が国にもたらした仏像、経典、美術品、文化、建築技術、
植物など、その恩恵、影響はけして小さくはない。ほかに舎利三千粒をもたらし、
初めて聖武上皇 に謁見するときに奉呈せられているという。
現在の境内のにぎわいからは、数十年前の世間から隔絶されたような境内の静寂
が嘘のように思えるのではないだろうか。
鑑真大和上、松林に囲まれた御廟で安らかに眠りつづけることを祈るばかりである。
※撮影年:2017