前回のストーリーの最後は、
[ かくて船は、枚方を過ぎたころ、雨催いの空、にわかに暗くなり雨が降り出した。見る見る間に大雨となり、苫も役に立たず、着物を濡らす。乗合船は上を下へと大騒ぎ。大雨と強風にたたられ木の葉のように淀川の大波に翻弄される船は舵も自由にならず、やがて船は激流の渦に吞み込まれるのだった。はたして弥次さん北さんの運命や如何に ]
【弥次さん北さん】「助けてくれー、おりゃー泳げねえんだよー、アアッ苦しい、目が 回るー」
[ 去るほどに、船は右に竿さし左に綱引き上るに、早くも八幡、山崎を後にして淀の堤を打ち過ぎ、夜も明け近くなりたる頃、伏見港に着いた。苫(莚で屋根をふいた)より漏れる光は白く、カラスの声あたりに響き、船着きたりと、乗合皆々目を覚ます。北八弥次郎も苫を打ちひらいて、笠ふろしき包を手に引さげ、船頭があゆみ板わたすを、打ち渡りて岸にのぼり、船宿にいたるに、乗合の人々の顔を見回せば、見知りたる顔一人もなし。これは不思議と、そこらうろうろと見回しながら、]
♪ 何でだろう~ なんでだろ?
【弥次】「なんと北八、おいらに酒を飲ませた隠居どのは、どうした?」
【北八】「さればの、長崎ものや越後道者どもは一人も居らん! なんでだろ?」
【弥次】「さっきの船のあがり場で、はて見たような所だなと思ったが、さてはキツネにつままれたか。」
[ 旅籠の中で 朝飯を食いながらその話を聞いていた太兵という男…]
【太兵】「これそこなわろたち、夕べ伏見から船に乗らんして、途中の枚方あたりで船が岸で待合しとるとき、用たしに堤へでもあがらんしたことがあろがな?」
【弥次】「へい、さようでござりやす。」
【太兵】「それ見やんせ。こつとらが乗った船にも、あの時上がりおった人が大分ありおったが、やがて船が出るというと、みなうろたえて乗りおった。その時こなた方は下り船と、上り船をとり違えて、面々の乗てきた船とこころえ、こちの船へ、乗らんとしたものでがなあろぞい。」
【北八】「ほんにさようでござりやしょう。わっちらも船に乗った時は、暗がりではあるし、船をとり違えたとは知らず、どうやら座った席も違うたようでございやしたが、乗合のことだから、えいままよとそれなりに、くたびれまぎれに、酒も入って目は回っていたし、つい寝てしまいやして、今朝ここへ来て見りゃ、乗合の衆のうちに、見知った顔が一つもねえは、不思議なことだと、言っていやしたのさ。」
【弥次】「そういえばなるほど、さっきの船のあがり場で、はて見たような所だと思いやしたが、見たはずだ伏見だもの。ハハハ…」
[ 北八弥次郎、これからまた船に乗って大坂へ訪ねにゆくも馬鹿ばかしいと、すぐに京へ行くつもりに、相談きめて立ち出る。北八弥次郎元気喪失の顔つきにて、ぶらりぶらりと京街道にさしかかる。 ]
墨染の遊女あらわる
[ それより伏見の町を打ち過ぎ、墨染めという所にさしかかる。ここには少しばかり遊所がある。軒ごとに長すだれわたしたる内より、木綿縞のひなびた衣裳を着て、顔を雪のごとく白くおしろいをベタベタつけた女が走り出て弥次郎の袖をとり、]
【遊女】「もしな、寄っていきなされ。ちょと遊びんかいな。」
【弥次】「なんだよせよせ。」トとふり切れば今度は北八の袖をとり 、
【遊女】「おまいさん、どうじゃいな。大石さんも遊んでいきはったんやで。」
【北八】「こうじゃいな。」トあかんべいと舌を出す。
【遊女】「おお好かん、※こちやいやいな。」
※上方筋の玄人女の言葉で、嫌ですよと、軽くこばむ意
【北八】「いやいなの三郎よし秀でも、とまらんのだ。ええ放しやァがれ!」
【遊女】「おお怖ワ!」ト女は袖をはなしてうちへ入った。
そこで一句(狂句)
すみぞめのおやまの顔の真白さは石灰藏のネズミ衣か
※墨染めの衣ではなく、石灰藏のネズミのように真っ白だ、墨染の遊女は、の意か?
京街道沿いにある深草の里は、家ごとに焼き物(伏見人形)、土細工を商う店多し。
ここでまた一句
やきものの牛の細工に買う人もよだれ垂らして見とれこそすれ
[ そして歩き疲れた頃、ようやく伏見稲荷大社までたどり着いた。]
【北八】「弥次さん そこらで一服やろうじゃねえか」
【弥次】「おお よかろうよかろう」トよしず立てかけてある茶店に入る弥次さん。「おや 甘酒があるの。ばあさん一杯くんな」
【婆】「はいはい温(ぬく)うしてあぎよわいな」ト言ってジッと弥次さんの顔を見つめる。
【北八】「おい弥次さん、この婆さん おめえに気があると見えておかしな目つきすらア」
【弥次】「ばかァ言え。…婆さん早く甘酒くんな」
【婆】「まちっと待っておくれんかいな。」ト言いつつこの婆さん弥次さんの顔を見ては泣き、また見ては泣く。
【弥次】「婆さんどうぞしたか? おめえ目が悪いのかね。」
【婆】「わしやおまいの顔を見て、いこう(甚だ)悲しうてならんわいな…。」
【弥次】「そりゃどうして?」
【婆】「ウオイ ウオイ…」ト泣き続ける婆さん。
【北八】「こいつはおかしい。婆さん何が悲しい?」
【婆】「わしやこの間、ひとりの息子を失うたが、その息子にあのお方が、似たとこそいえいえ。」
【弥次】「はあ? おいらに似たとかえ。それじゃあ おめえの息子もいい男であったろうに、惜しいことをした。」
【婆】「それその胴間声のもの言いから、おまいのように やっとあらいみつちや(沢山の大きなあばた) があって、色が黒くて、鼻は獅子鼻で、目のいっかい(大きい)所までが、そのままじゃわいな。」
【弥次】「なんだあ、それじゃあ、わっちが顔のわるい所ばかりがよく似たのオ。」
【北八】「わるい所ばかりも悪いとこばかり、いい所は一つもねえもせんものを。」
【婆】「そればかりじゃないわいの、あの片方の小鬢のハゲさんした所までが、あないにも似るものかいな。」
【弥次】「言いたい放題だな。人の顔のたな卸しがすんだら、その甘酒を早くくんな。」
【婆】「ほんに忘れたわいな。」ト茶わん二つに甘酒をくんでさしい出す。
【北八】「なんだあ、ごうぎに薄い甘酒だ。」
【婆】「薄うもなりましたじゃあろ。わしや悲しうて、つい涙をその中へ落としたわいな。」
【弥次】「なんだってェ、とんだことを…涙ばかりならまだしも、見りゃアおめえ、水ばなを垂らしているが、それもこの中へ落ちやせんかね。」
【婆】「わしや見なさるとおり、口のしまりが悪いさかい、はな水とよだれを一つに、その中へ落としたわいな。」
【北八】「ええこりゃ情けないことを言う。こいつはもう飲めねえ。」
【弥次】「おらあ、つい飲んでしまった。いめえましい、さあ行こう。」
【北八】「婆さんいくらだ。」
【婆】「はい六文づつくだんせ。」
【北八】「水ばなはオマケだの。」トぺっぺつと茶店の外で唾をはく北八。
ここでまた一句
くりごとに涙をまぜて水ばなもすすりこんだるウバが甘酒
[ かくて二人は足にまかせてたどりゆくほどに、だんだん都に近くなりて、往来ことに賑わしく、人の風俗も、自然と温順にして、しかも衣装ははなやぎたる女の装いに、うつつぬかして見とれ行くうち、はやくも太閤さんの大仏前にいたる。]
【北八】「おやおや豪勢ェなお寺だ。あれ山門の上から仏さまが覗いている。」
【弥次】「ははァこれが、かの大仏だわえ。なるほど話に聞いたよりは、ごうてきなものだ。そしてこの石を見や、すごいすごい。」ト笑みを浮べる。
[ そして二人は山門のうちに入る。やがて御堂にのぼりける。]
※つづきます
【参考文献】
『東海道中膝栗毛』十返舎一九著・「日本古典文学全集」ー小学館刊・校注-中村幸彦
意訳(ほんの少し):筆者