いまは昔、貧しき女が清水の観音に参籠し運を得た話





今は昔、清少納言が『枕草子』を著したずっと前のことだ。京に住んでいた若い女が、貧しい暮らしでいっこうに生活は楽にならなかったので、清水の観音さまに願をかけていたが、少しもききめがなかった。そこである日、いつものようにお籠りして、観音さまに申し上げるには、「わたくし長年の間、観音さまを信仰いたしまして、足しげくお参りしてまいりましたが、相変わらずの貧乏暮らしで食べるものにも不自由し、いっこうに暮らし向きはよくなりません。これも前世の報いかもしれませぬが、せめて少しばかりのご利益をいただけないものでしょうか?」、とお願いしているうちに眠気が襲ってきて、つい横になるうちに眠ってしまった。





ひと晩中、僧侶が大声で勤行しているのだろう、法螺貝や鐘の音、人を呼ぶ声にまじって僧侶の祈祷する声などが堂内に響き、夢うつつにも聞えてくる。その夜は三七日(さんしちにち)の間、お籠りをして、今日が満願に当る日だった。僧侶のお経を読む声が、いつの間にやら女の言葉になって…「ここから帰る道で、そなたに言い寄る男がある。その男のいうことを聞くがよい。」と聞えるのだった。若い女は、「はっと思って、目を覚まし左右を見廻したが、お経が聞えるばかりだった。ひょいと内陣の方を見ると、蝋燭のぼんやりとした明りで観音さまのお顔が見えた。日頃拝んでいる端正で厳かなお顔がある。そのお顔をじっと拝んでいると、不思議にもまた耳元で「その男のいうことを聞くがよい・・・」と、女の声がかすかに響いてきたような気がした。若い女はそれを観音さまのお告げだといちずに思い込んでしまった。





さて、女は夜がふけてから、寺を出て、だらだら下りの清水道六波羅の方へくだろうとすると、案の定うしろから男が抱きついてきた。その夜は月のない晩であいにくの暗闇。相手の男の顔も見えなければ、着ている服などもなおのこと分らない。ただ、ふり離そうとするばかりだが、男の力にはかなわない。とんだ満願の夜に当ったものである。 相手は、名を訊かれても名をいわない。ただ言うことを聞けというばかりで、坂下の道を横道にそれて女を抱きすくめたまま、引きずるようにしてどこかへ連れて行こうとする。泣こうにも、喚こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、助けに来るものもない。





女は観音さまのお告げもあったことだしと観念した。そしてとうとう法観寺八坂の塔)に連れ込まれてその晩はそこですごした。 夜が明けると男がいうには、「これも前世からの深い縁があってのこと(と自分勝手なことを言うw)、これからは、わたしとともにここにいてください。わたしは身寄りもない身の上、あなたを妻としていっしょに暮らしたい」。男はそう言って、間仕切りの向こうから、大変美しい綾織物十疋、絹織物十疋、光り輝く緑や赤い色をした玉、袋に入った砂金などを取出して女にあたえた。女のほうも、「わたしとても、頼みにするお方もない身ですから、心からそう言ってくださるのなら、仰せのままになりましょう」と答える。その返事に男は「安心しました。それではこれから仕事に出かけるが、夕方には戻ってきます。あなたは此処にじっとして待っていてください」そう言いつけると、女を置いて出て行った。 





女は時間が経つと正気にかえったのか、あたりの様子をうかがう。衝立の向こうには白くちりじりになった長い髪を後ろで束ね、顔中皺だらけで腰の曲がった婆さんが一人いるばかりであった。こんなお寺の塔の中を住まいにしているとは、少々怪しいと勘づいて、須弥壇の下を覗いてみると、山ほど財物がある。いまさらだけど、女が合点したことには、「あの男は盗賊なのだ! それで荒れたこの塔の中にひそんでいるのだ」。そう思うと、女は体中ががたがたと震えてくるのだった。思わず「観音さまお助けください」と一心に手を合わせる。





見ると、婆さんが戸を細めにあけて表の様子をうかがい、人のいない隙をみはからって、桶を頭にのせて出て行った。水を汲みに行ったようだ。 女はす早く、この婆さんの戻る前に逃げだそうと決心し、もらった綾織物や砂金などはこっちのものと、持てるだけ抱えて表に出て、飛ぶように逃げ出した。婆さんは水くみから戻ると女がいないので、さては逃げたなと気がついたものの、あとの祭で、ゆくえも知れなかった。 




八坂の塔


女は懐をふくらませ、腕の中には織物を抱え込んで松原橋(五条橋)を渡り京の方へ足を足を運んだが、町中では人目が怖いし、京極筋辺りにちょっとばかり知った家があったので、そこで休んでいると、西の方から、なにやら人がたくさん通る。 誰かが「あれ、盗賊をつかまえて行く」と口々に騒いでいる。女は戸の間からそっと覗いて見ると、自分といっしょに寝た男を検非違使庁の下役や放免どもが、からめ取って引いて行くところである。見るなり、女はすんでで心臓が止りそうになった。早くに気がついたとおり盗賊だった。男をからめ取って、八坂の塔で盗んだ財物の検分をするために連れて行くのだ。こう思うにつけても、自分がぐずぐずして、あの場所に残っていたら、と考えると、身の置きどころもなく恐ろしくなった。これも観音さまのお助けと、限りもなくありがたく思った。 




松原橋・鴨川に架かるかつての五条橋


ほとぼりがさめてから京の町中に入り、後になって、もらった綾や絹などを少しずつ売りさばき、やがては暮らしも豊かになり、夫もできて、安らかに世を送ったとさ。 観音さまの霊験あらたかなことはかくのごとくである。♪チャンチャン!  (これが観音の霊験というなら、願をかけるのもどうなのかなあ?)



松原橋(五条橋)

鴨川の左岸は京であって京ではなく、洛外と呼ぶようだ(祇園に住む方は不満かな)。
昔死ぬ間際の人を家に置くのを忌み嫌い、戸板に乗せてこの橋を渡り、鳥辺野まで運び
置いてきたとか。住所の末尾に「野」(嵯峨野、化野、紫野、市原野など)のつく所は、
たいていそんな場所だったようだ。

 




【参考図書】
・『今昔物語』
芥川龍之介『運』
清少納言枕草子