江戸っ子の湯治と江戸っ子の習性を『東海道中膝栗毛』から考察する?

 


江戸ッ子の湯治は夢でしかない?

半年ほど前に「江戸ッ子の湯治」という文章を読んだ。作者は江戸の文化や風俗にくわしい三田村鳶魚(えんぎょ)氏である。江戸に詳しい作家先生方には、他には穎原退蔵氏、森銑三氏、饗庭篁村氏、淡島寒月氏、そしてわたしの私淑する幸田露伴氏などがいるが、三田村氏ほど庶民の生活を調べて、書いて、後世に残している方を知らない。

で、今日お話しするのは、三田村氏の受売りであることをお断わりしておきます。
江戸時代、湯治の出来る者は相当な費用がかかるので、庶民には高嶺の花。長屋に住む庶民には、湯治費用などどこにもありません。なんせその日暮らしなんですから。ですから江戸ッ子は親も子も孫も湯治には行けません。

わたしの子どもの頃は、親と一緒に山奥の湯治場に米、野菜、缶詰などを背負い(釜、食器、急須などは宿から借りた)、数日間とか行ったものですが、江戸ッ子は、ハア? 湯治って何? なんて思っていたことでしょう。でも江戸ッ子が湯治を知らなくても、地方の庶民は湯治を療養として生活の中に組込んでいたのです。そんな光景が、江戸時代の紀行作家・本草家である菅江真澄(すがえますみ)という者が『菅江真澄遊覧記』という書物に残してくれています。とても面白い本なので機会があれば読んで見て下さい。

あれどこまでいったかな?…そうだった…人間はまことに重宝なもので、ないことでも想像に浮べることが出来ます。あの罪も酬いもなく、ただもう嬉しくてたまらなく出来ている江戸ッ子を、のんびりと我儘気儘に湯治をさせてみたら、どんなものだろう、実におかしかろうと思う。そこが十辺舎一九の狙いどころなのでしょう。

江戸ッ子は銭がないばかりでなく、知恵もなく、物も知らない。嬉しがることも、楽しむことも、かわいそうなほど浅薄だけれども(ワシのことかいな)、理屈がないのが身上で、そのお陰で考え込まないのが取り柄であった。十辺舎一九が、おかしみを発揮する傀儡にした弥次喜多、利口でないのが何よりの景物で、江戸ッ子の面影をよく見せています。その弥次郎兵衛喜多八が上州草津の入湯、逗留した湯宿の隣座敷にいる上方者との応対でございます。






弥次郎兵衛喜多八 草津の湯に浸かる『続東海道中膝栗毛』より

【上方者】「コリャ おゆるしなされ、あなたがたは今日お着きかな、わしゃこのお隣の部屋のもんじゃさかい、お心安うお頼み申しますわいな。」


【弥次】「ハイ それはおたげえ、さあ一服お上がりなせえ、…お国はどこでござりやす?」

【上方者】「上方でおますわいな。お江戸見物に来て、ここは名湯じゃと言うこっちゃさかい、こちへ廻りましたわいな。ヤア すり鉢焚きなさるは何じゃいな?」

【北八】「これは おつけを煮るのさ。」

【上方者】「イヤ えらいえらい、擂鉢で汁たくとは珍しい、わしゃ今度遠州の秋葉へいたが、イヤぁこの台所で汁たくを見て、わしゃ とつとモウあきれたわいな。その鍋のいつかいことは、酒屋の五尺桶よりもまだえらいので、汁たいてじゃったが、擂鉢もいつかいのを幾つも並べて、大勢で味噌すりをると、そのすったのを荷いで運びおって、鍋の中へあけおるわいな。あないな仰山なこと見たことがないわいな。」

【北八】「イヤ 江戸では、そんなことじゃァござりやせん。もっとも御屋敷方では、大ぜい後家来衆があっても、皆お長屋というに、めいめいカマドがあって焚くからいいが、越後屋だの、白木屋だのという呉服屋見なさったであろう。何百人暮らすやら、それでも飯は一つ釜でたくというものだから、その釜のたいそうさ、途方もねェやつえ、研いだ米を、これも荷いで運んでしかけやすが、その水加減をするのが奇妙なものさ。」

【上方者】「なるほど、大っきな釜なら水加減が難しかろ。どうしてするぞいな?」

【北八】「ナニ 雑作もねえことさ、裸になって釜の中を泳いで歩いて水加減をしやすのさ。」…ホオ そうかそうかと感心する竹斎でした。





そして江戸ッ子の習性とは…

『 無暗に江戸の自慢がしたいのだが、何を自慢していいのか知らない。委細かまわず先方の話へ輪に輪をかけて、言い勝ちにする。それで天下様のお膝元のエライのを思い知らせるつもり。法外な鳥馬法螺を吹いて、他人に笑われるのに気がつかない。またちっとも気恥ずかしくない。相手次第に出るを任せにやって除ける。ですから思いがけない大法螺を吹く。決して平常の持合わせでもなく、たくらんでおいたわけじゃない。おシャベリが過ぎて話の辻褄が合わなくなり、化けの皮が剥げた時には、いつもお笑い草になる。これがベランメイ氏の常態です。だが幾度失敗しても決して懲りません。

……江戸ッ子が知っているのは、長屋の木戸が限り、広くて町内以外に出ない。それでは八百八町の話は出来ないのに、機会次第しきりに話したがる。江戸ッ子の通有するこの習性のほかに何があろう。

彼らに将棋を嗜むものさえまれで、囲碁は皆無といってよかろう。趣味趣向などの持合わせはまずない方で、稗薪を買うのや朝顔の栽培するなどが著しいのですが、それさえ老人ぶったように考え、十人に一人もあるかないか、俳諧発句、筆をもったことのない文字を知らない人間ですものを、何でそんなことがわかりましょう。彼等にわかるのは地口・洒落、それだから口上茶番というやつが大流行であった。彼等の趣味といったら、茶番趣味というよりほかになかろう。…洒落とむだ口とは彼等の文学だといえましょう。それと瓦版の流行唄とで、彼等の文化を後世から探索するのに恰好でしょう。


江戸ッ子の湯治は実際にはないものですが、時折想像されるおかしみではありました。それ故江戸ッ子の正体を知る程度によって、色々な滑稽型も現われてまいります。いずれも利口らしいところがあっては、認識不足でしょう。ばかげていればいるほど、江戸ッ子を諒解した深さが知られます。』


三田村先生、ちと言いすぎじゃありませんか。でも、京都人にも少々耳の痛い話ですなあ。



【参考図書】
・『三田村鳶魚全集』第七巻 ー「江戸ッ子の湯治」