京都の大金持ちはどんだけケチかという、昔も今も変わらぬ話?



 京都には世界に誇る大企業がいくつもあります。名を上げれば島津製作所オムロン村田製作所村田機械ローム、京セラ、日本電産等々。それらの会社はいったいどんな会社やら、何をつくっている会社なのか、社長は誰なのか、そういうことが京都に住む人間にもあまり知られていません。でも京セラの稲盛和夫氏と日本電産永守重信氏の名を知らぬ大人はいないでしょう(たぶん)。このお二方は、「経営の神様」とあがめ奉られているようですし、西鶴の描いた京都人を越える「どけち」でも知られている実業家なのですから。







 ただのケチとは違う京の大金持ち藤屋市兵衛(イーロン・マスク氏ほどでは…)

 江戸時代は元禄文化の花が開こうとした頃の話ですが、「世界で一番の金持ちはわたしだ」とたいそう自慢していた男が京の都におりました。その当時は大阪もまだ田舎であったし、江戸は大きくはなったものの所詮新開地にすぎず、知識人の層といい、町人の財力にしても京の都ほどの土地は、その頃はどこにもなかったのです。


 その世界で一番の金持ちはわたしだと言った男の名は藤市といいました。家業は長崎商いのほかに相場物の買置き、それに貸金業をしていたようなのです。自慢していたわけは、わずか二間(約3.6m)間口の商店の借家住まいの身でありながら、銀千貫目(3,750kg)、山吹色の小判に換算すれば一万六千六百六十両余の財産を持っていたようなのです。さて現在の貨幣価値に換算するとなんぼになるのやら・・・。


 ここに平成十九年(ちょっと古いです)の米の価格にもとづいて計算した価格があります。それによれば、銀一貫は二百二十万円に相当するようです。ということは現代の貨幣価値になおすとその一千倍ということになります。実際は西鶴の小説のモデルになった藤市は、銀二千貫の財産を持っていたという報告もあるようです。藤市のような大金持ちが、京の都にはいく人もいたのですから、そりゃあ祇園祭の鉾や山に加えて豪華な輸入品の懸装品を寄付できたわけですよね。
 でも元禄時代に「世界一の大金持ち」といったところで、最近新聞紙上を騒がせているイーロン・マスク氏やユニクロ柳井正氏とくらべたなら「小金持ち」の範疇ですね。




 




 話をもとに戻すと、この藤市は利口者で、一代でこれほどの金持ちになったのでした。藤市が語る世渡りの基本というのは、まず堅実であること、そして健康であること、それが揺るぎない信条なのでした。この男は家業のほかに、反古紙で帳面をとじておき、店をはなれず、一日中筆を握って、両替屋の手代が店の前を通れば、銭や小判の相場をきいて帳面に書きつけ、米問屋の手代には米の取引相場を訊ね、生薬屋や呉服屋の手代には長崎の情報を聞き出し、繰り綿や塩・酒の相場は、江戸の出店から書状の着く日を待って記録するという具合に、毎日万事の相場を書きとめておくので、分らないことは、この店に尋ねれば分るということになり、都中から重宝がられることになったのです。


 藤市のふだんの格好はというと、肌に一重の襦袢を着て、その上には大きく仕立てた木綿の着物に綿を三百目を入れて、これ一枚よりほかに着ることがなかったそうです。袖口にはヘリ(袖覆輪)をつけて袖口がボロボロになってもヘリを付ければ見栄えが良いというものだ、と店のものに自慢げに語っていたそうです。この袖覆輪というものは藤市がやりはじめて世間に広まったものです。これで京の都の町人風俗が見た目もよく、しかも経済的になったのでした。藤市は服飾デザイナーの素質もあったものと見えます(わたしが学生服のすり切れた袖口を袖覆輪に繕っていたことを藤市はすでにやっていたのです)。


 そしてまた藤市は上等な鹿皮の革足袋に雪駄をはいて、ついぞ四条通りや烏丸通りなどの大通りを急いで歩くようなこともありませんでした。もっと安価な履き物を用いていたのです。さらには、一生のうちに絹物といっては紬だけで、その一枚は花色染であったが、もう一枚を染返しのきかない海松茶染にしたことを、若い時の無分別であったと、二十年もの間 悔しく思っていたといいます(どんだけー!?)。



 



 

 こんな藤市は都の町人としては異質なのかもしれません。というのは、京都人は「人は見た目がすべて」という観念が生まれたときから備わっているみたいで、近所の老舗に買い物に行くにも着飾って行く、きれいな格好をしていかないと商人から見下されてしまう心配があるのだというのです。もし普段着で格の高い店に買物にいこうものならぞんざいな扱いを受けるのがおちなのです。それは旅人に対しても例外ではありませんぞ。そんな京都人のなかにあって、藤市は他人がどう思うとも節約が第一なので格好など気にしなかったのです。


 さらにさらに藤市は礼服も紋所を決めず、丸の内に三つ引きか、または一寸八分の巴をつけて、土用干しにも汚れぬように畳の上にはじかには置かず、礼装の麻袴と鬼もじ(粗く織った麻布)の肩衣も、いく年着てもなお折り目正しくしまっておいたといいます。
 町内つき合いで出る葬礼には、しかたなく清水寺下の鳥辺山に野辺送りしましたが、人より遅れて帰る途中、六波羅の野道で供の丁稚と一緒にセンブリを根引きして、「これを陰干しにしておけば腹薬になるぞ」といってただでは通らず、けつまづく所では火打ち石を拾って袂に入れるほどであったとか。転んでもただでは起きない、とはこのことでしょうか。いやはや落語に出てくるような振舞いですね。


 藤市が考えるお金を貯める心得とは、始末することも大事だが、まずは無駄な金は使わないこと。これに尽きるようです。その精神は現代の京都の起業家・実業家にも脈々と受け継がれているようです。井原西鶴「日本永代蔵」の中のお話でした。
※(加筆し再掲載



 

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