「日記文学」の面白さ ー 永井荷風『断腸亭日乗』を中心として


日記の面白さとは

日記文学といえば古いものでは『土佐日記』だろうか。作者の紀貫之は女になりすまし土佐日記というブログ(!)を全文ひらかなで書いた。名作と言われる土佐日記を読んでいると、紀貫之はときどき馬脚(男)を露している(それも愛嬌)。いくら名作だと言われても わたしにとっては、紀貫之は日記より歌がいい。少しだけ日記の内容を紹介すると…

 
四、五年にわたる国司の任期を終えた紀貫之は高知から都へ帰ってくる。今なら半日、せいぜい一日もあれば帰京できるだろうが、当時は船で大阪湾から淀川・桂川をさかのぼり55日もかかっている。悪天候に見舞われたり、海賊の心配をしたり大変だったみたいだ。
 
真昼間に都に入るのは憚れるというので あえて夜に帰宅している。そして…月明かりに照らされた我が家を見ると、想像以上にぼろぼろになっていた。隣家の者が望んで留守の家を預かってくれたけど、これは酷い! なんという有様だ! 庭も荒れ放題だ。
 
ひと息つくと この家で生まれた女の子とは 一緒に帰って来れなかった悲しみが胸にこみ上がる…。



紀貫之邸跡(京都御苑内)




紫式部日記には同時代の人々のキャラがでている
源氏物語の作者『紫式部日記』も面白い。関白藤原道長のキャラがよく分るし、紫式部の性格などもバッチリでている。清少納言紫式部の間には面識は無かったように思うが、紫式部の日記を読みとくと清少納言にライバル心を持っていたようにも見える。『日記』のなかで「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。」つづけて、風流を気取ったひとは行く末は異様なばかりにになってしまう(そこまで言うか)と清少納言の晩年の姿を知っているかのように書いている。



 

sasurai1.hatenablog.com

 



日記を読むのは何のため?
これは文学といえるかどうか分らないけど、経済学者-河上肇氏の『獄中日記』も意外と面白いし、依田学海翁の『学海日録』と韓国で "発見" された『墨水別墅』(ぼくすいべっしょ)などは日記としては別格の扱いにしたいくらいだ。とりわけ『墨水別墅』は高尚な内容(別宅である愛妾の家での話がほとんどだけど)で全文漢文(訳があるけどほとんど漢文だあ)ときている。その文章が素敵な漢詩を読んでいるような錯覚に陥るから不思議だ。

依田学海翁とは元佐倉藩の武士で、森鴎外夏目漱石の漢学の師匠である。当時無名だった文学青年-幸田露伴の初の小説(原稿)を世に紹介した人でもある。

日記とは公にするものではないだろうけど、発表されたものは歴史を学ぶには良い教材でもある。わたしは明治維新前後、戦前戦後のことを知りたくて、飽きずに(遅々としてすすまないけど)読んでいる。



近ごろ何故か気になる永井荷風

荷風といえばあの『墨東奇譚』が真っ先に頭に浮ぶ。そこには「玉の井」に住む庶民の生活と僅かだがまだ江戸情緒の残る下町情景が描かれている(荷風はスケッチ画とともに地図までつくってるし)。ローライコードという二眼レフのカメラ(一説にはベス単とも)をその頃に104円で購入している。思うに、カメラを持って浅草や玉の井あたりを撮影し、後に写真をもとに画を描いていたのではないだろうか(そのころ荷風は『墨東奇譚』を脱稿していた)。
荷風ローライフ・レックスを310円で購入したのは昭和十ニ年二月一日、それ以前は「ベス単」を使用していたようである(荷風全集月報22注釈より)。



明治時代に仕事でフランスとアメリカに渡航していた荷風は、進歩的な考えの持主でもあったが、江戸文学も好きで、春水の人情本『春色梅暦』や太田南畝の文章が大好きときている。そんな理由から玉の井にも出入りしていたのだろう、と思ったりしている(ご婦人にも興味があったのだろうけど)。玉の井での体験をもとに、春水のような小説を書こうと考えていたのかもしれない。そんな荷風の日記『断腸亭日乗』は読みはじめると結構面白いというかためになる。今日は日記の一部を紹介してみたい。そこには『墨東奇譚』の書かれた背景、そして戦前の庶民の生活や風俗が描かれている。






初めての玉の井
荷風全集第二十二巻 昭和十一年五月の日記には、

" 初めて玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり。……路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらいの汚さなり。西洋寝台を置きたる家少なからず。二階へ水道を引きたる家もあり。又浴室を設けたる所もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴するという。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、ちょっとの間は一円より二円までなり。

路地口におでん屋多くあり。ここに立寄り話を聞けば、どの家の何という女はサービスがよいとかわるいとか言うことを知るに便なり……"


まるで『墨東奇譚』そのもののような日記
また同じ巻の九月には(少々引用が長いけど)、

" 今年三四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人居るのみにて抱主らしきものゝ姿も見えず、下婢も初の頃には居たりしが一人二人と出代りして今は誰も居ず。女はもと洲崎の某樓の娼妓なりし由。年は二十四五。上州辺の訛あれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌(きりょう)、こんな所でかせがずともと思わるゝ程なり。あまり執ねく祝儀をねだらず万事鷹揚なところあれば、大籬のおいらんなりしと云うもまんざら虚言(うそ)にてはあらざるべし。余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪ふ時には必ず雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり(その手はよく使った-筆者^^)。


此の夜余は階下の茶の間に坐り長火鉢によりかゝりて煙草くゆらし、女は店口の小窓に坐りたるまゝ中仕切りの糸暖簾を隔てゝ話する中、女はたちまち通りがゝりの客を呼留め、二階へ案内したり。しばらくして女は降り来り、「外出」だから、あなた用がなければ一時間留守番して下さいと言ひながら、着物ぬぎ捨て箪笥の抽出しより何やらまがひ物の明石の単衣取出して着換へ始める故、一体どこへ行くのだと問へば、何處だか分らないけれど他分向嶋の待合か円宿だらう。一時間外出は十五円だよ。お客程気の知れないものはない。あなたなら十円にまけるから今度つれて行ってよと言ふさへ呼吸急しく、半帯しめかけながら二階へ上りて、客と共に降り来る……女は揚板の下より新聞紙につゝみし草履を出し、一歩先に出て下さい。左角にポストがあるからとて、そっとわが方を振向き、目まぜにて留守をたのみいそいそとして出行きぬ。一時間とはいへど事によれば二時間過るかも知れぬ臨時の留守番。さすがのわれも少しく途方に暮れ柱時計打ち眺むれば、まだ九時打ったばかりなるにやや安心して腰を据え、退屈まぎれに箪笥戸棚などの中を調べて見たり(さすがにそれは…^^)。"





また第二十二巻十一月九日(昭和十一年)の日記には、

ローライ・フレックスと荷風
" 写真機を携へ玉の井に赴けば三時に近し。一部に属する路地に入り鎌田花といふ表札出したる家を訪ひ、二階の物干より路地を撮影すること五六回なり。然れども老眼甚だ機械の目盛を見るに便ならず、果してよく撮影することを得たるや否や。"

その三日後には再び写真機を携えて小石川あたりを撮影している。荷風は相当なカメラ愛好家らしく、翻訳家の高橋邦太郎氏は、「荷風先生は夏でもキチンとネクタイをし、編上靴をはき、金の鼻目金をかけ、時にはローライ・フレックスを持って来られた。これで思い出すのは、先生のカメラ愛好家だったことである。…一度、偏奇館に参上して見せてもらった『墨東奇譚』の資料として先生の撮影された写真は夥しいものだった。これもまた空襲で焼けてしまったのは残念である。」と追憶に書いている。

荷風は写真の現像・焼付けまで自分でやっていたことを日記に書き残しているので、相当写真に凝っていたようだ。



玉の井のことを書いた日記は、眼前にその時の情景がリアルに見えて来るなあ。日記にはご婦人には不愉快になるようなことが書かれてあるけど、その時代の風俗を知ることが出来る。ブログのように読めば色んなことが参考になること多し。あとはご自分でお読みになってみて。

※写真と本文は関係ありません。


 ↓ こちらにも荷風のことを書いています

chikusai2.hatenablog.com