100歳のばあば が新型コロナに感染 ! ?


青天のへきれきと言うべきか、都内に住む御年百歳になる妻の母親が新型コロナに感染したようだ、と連絡が入った。十年前の大腿骨骨折では、 もしや寝たきり状態になるかと思わせたが、持ち前の不屈の精神とリハビリにより一人で歩けるまで回復した。

今度ばかりは、年齢からいってもダメかなという考えが頭をよぎったが、本人はといえば いたって元気。少々物忘れが多いことを除けば、日常の生活にはなんの支障もない。陽性が判明した経緯は、介護施設にお世話になる前にPCR検査を受けたところ、陽性の反応があったのだという。擬陽性? ひょっとして免疫があったとか。まさかとは思うが、深夜に家族が知らないうちに盛り場を徘徊していたとか? 謎だ(参考までにワクチンは二回接種している)。

義兄夫婦(共に70代)は濃厚接触者(PCR検査では陰性)ということで暫くの間「自宅待機」。祖母も当然「自宅療養」だって。食料品などは、パルスオキシメータと一緒に段ボール箱三箱届けてくれるので、それは有り難いけど祖母用に流動食(歯が無いので流動食のようなものを食べている)はありませんとさ。その義兄夫婦だけど、まわりでコロナに感染している人を見たことも聞いたこともない、って大口叩いていたけれど、今ごろどんな顔をしているのやら。症状が出なければよいけれどね。でも、ばあばはどこで感染したのだろう?

www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp

追記:「食品支援」の段ボール箱が待てど暮らせど届かないというので、急遽食パンなどを宅配便で送りました。こういうことをするのは「東北大震災」以来かな。あの時はスーパーの陳列棚はカラッポなので、放射能に汚染されている畑の野菜を食べるしかなかった、といっていた。コロナ禍の今も「大災害」なんだなきっと。

※祖母は8月○○日からは「陽性者」では無くなったと連絡がありました。この間症状はまったく出なかったとのこと。しかし…義兄夫婦は濃厚接触者なのでその日から2週間 ( ! ) は外出禁止だって、こりゃショックだわ。



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朝の来ない夜はない!?




ところで疫病が蔓延するなかで、市長が真っ先に町から逃げ出したという話を聞いた。都知事でなくて安心したけれど、コロナ禍で普通の神経なら都知事のような要職から逃げ出したくもなるだろうに、あの女性知事は凄いわ。人ごとのようにTVカメラの前で話ができるんだから。


ペストから真っ先に逃げ出した市長がいた!
ところでモンテーニュの伝記を含むツヴァイクの『三人の巨匠』を読んでいると、ボルドー市長がペスト禍の中で真っ先に逃げ出した、という話があった。『エセ―』は古典の引用がやたら多くて読みにくいけど、モンテーニュが言うように分からないとこは飛ばして、面白いとこだけ暇つぶしに読めばいい。『エセ―』を読めば頭が固くなり、同じく長大な『カザノヴァ回想録』を読むと下半身が突っ張る、なんて言ったら叱られるかな。…おっと脱線してしまった。

そのモンテーニュだが、生れたのは16世紀のフランス、「この時代のフランスは…国情はけっして穏やかでなかった。ペストなど、悪疫の流行、暴徒の出没、公教徒対カルヴィニストの宗教的戦争、他国への出兵。数えれば限りがない」。モンテーニュは大学では法律、論理学、弁論術などを学び「二十一歳から十六年間、裁判所に勤めた」。父親が亡くなったので職を辞し郷里に帰り、「三十八歳になったその日から城内(どんな家に住んでたん?)に定住し、読書三昧の毎日」。一切の束縛をのがれたと思ったけれど、今度は別の束縛が待ち受けていた。フランス王の要請(選挙? 命令?)もあって一度は辞退したもののボルドー市長になる羽目に。だが、な なんと無給(都知事の年俸はいくらだろうか?)で数年間も市長職に従事している。


「1585年、本来なら、ボルドー市長としてのモンテーニュの二回目の任期(都合4年)が終り、挨拶と尊敬を受けて、光栄ある引退を行える年であった。しかし…

……その頃、ペストボルドーに発生すると、彼は町を見捨てて、一目散に逃げ出してしまったのである。自我中心的な彼にとっては、健康がいつもいちばん大切であった。彼は英雄ではなかったし、また、英雄をてらうこともけっしてなかったのである。」

ペストは逃走の信号!(生き残るには逃げるが勝ち?)
「ペストというものが、当時どのような意味をもっていたかは、今のわれわれには理解することができない。われわれが知っているのは、エラスムスをはじめ多くの人たちに見られるように、どこに行ってもペストは逃走の信号であった、ということだけである。

ボルドーの町では、六カ月にもならないうちに、住民の半分にあたる一万七千の人間が死んだのである。馬車や馬を手に入れることのできた者は、すべて逃げ去った。あとに残ったのは〈細民〉(もしかして自宅療養者とか?)だけであった。

ペストはモンテーニュ家の内部にもあらわれた。彼は家を去ることに決心した。……彼の財産は莫大な損害をこうむった。戸じまりもせず、空っぽ(留守番は置かず?)にしたまま、家を出て来なければならなかったから、誰でも泥棒に入ることができた。おそらく、もう勝手放題に荒らされていたことであろう。

彼はマントもつけず、着の身着のままで家を逃げ出した。どこへ行くあてもなかった。なぜなら、ペストの町から逃げて来た一家など誰も受け入れてはくれないからである。〈彼らは友人たちにも恐れられた。人々は自分自身が恐ろしかった。宿を求められた人たちは不安におそわれた。そして、同宿の一人が指先の痛みをうったえはじめただけで、もう人々は突然宿を変えるのであった。〉

ぞっとするような旅であった。途中彼らは荒れはてた畑や、見捨てられた村や、埋葬もされずにいる病人の死体を見た。六カ月のあいだ、彼は〈悲惨な気持ちでこのキャラバンの隊長〉をつとめなければならなかった。

そのあいだにも、彼が町の管理をすっかり任せてきた〈参事たち〉は、かさねがさね彼に手紙を書いてよこした。察するに、彼らはモンテーニュの逃走に憤慨し、彼の帰還を要求したのである。そして、最後には、市長職の任期が終ったことを伝えてきたのであった。しかし、モンテーニュは、きめられた任期満了の手続きにももどらなかった。


こうして、あわてふためいてペストから逃げてしまったために、彼は若干の名声と名誉と威厳を失った。しかし、〈真髄〉は無事であった。十二月になってペストが姿を消すと、モンテーニュは六カ月の放浪ののちに、ふたたび城館にもどって来た。」

ツヴァイク全集五『三人の巨匠』(みすず書房昭和36年刊)他より引用。柴田翔他訳