「徒然草」いでや、この世にうまれては(京都御苑の春)

 

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寒い日が続いたと思うと、春のように暖かい日がある。
今年の冬は全くもって先が読めない。外出するにもさて
どれを着て行こうか、と悩む(悩むほど衣類は持ち合わ
せていないけど)。

昨日、梅林の横を通りかかると結構な人だかり。梅の香
を嗅ぐ人がいれば、一心に望遠レンズで写真を撮る人も
いる。今年は梅の咲くのが早い。例年になく早い。すで
に満開の紅梅、白梅さえある。

 

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 "春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。

春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋はかよひ、

秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、

梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむには

あらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。

迎ふる気、下に設けたるゆゑに、待ちとるついで甚だはやし。

 

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露をおびたモミジ



生・老・病・死の移り来る事、またこれに過ぎたり、

四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。

死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。

人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、

覚えして来る。

沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。"

徒然草』第百五十五段より

 

 

 

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なにかと鴨長明と比べられる兼好法師である。
ある人が言うには「西行は自然だけを見、長明
は自己だけを、兼好は人間だけを見ていた」と
いう。はたしてそうであろうか。

方丈記』の冒頭「行く河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず。…」にしろ、兼好
法師の『徒然草』第百五十五段で述べているこ
とにしろ、実によく自然を観察している。

「木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあ
らず。下よりきざしつはるに堪へずして落つる
なり。」
など、不覚にも "目から鱗が落ちた" 状態になっ
てしまった。というのは、その段を読んだ後、
秋から冬にかけてモミジの芽吹きを観察したこ
とがあった。実際、兼好法師の書いた通りであ
った。西のゲーテ、東の兼好といっては言いす
ぎか?